本ノ木遺跡(もとのきいせき)は新潟県中魚沼郡津南町にある縄文時代草創期の遺跡である。
縄文時代の始まりを巡る論争の舞台となった遺跡である。信濃川と清津川との合流地点南側の段丘上にある。津南町は段丘地形が発達した町として知られる。縄文時代草創期の生活文化を示す遺跡群となる。
1956年(昭和31年)明治大学の芹沢長介は発掘調査を行い、信濃川に面した低位段丘にあり、狩猟用とみられる細身両面加工の石槍(槍先形尖頭器)が多量に発見された。それとともに「特殊な土器」が出土した。芹沢は出土状況から石槍と土器は共伴しないものと考えた。 1957年に東京大学の山内清男が発掘調査し縄文土器研究の第一人者である東京大学の山内清男は芹沢の発掘の隣接地で発掘調査を実施し、多数の石槍と少量の土器が出土した山内は両者を同時期とみなし、縄文時代に属する遺跡と評価した。考古学で有名な「本ノ木論争」となった。 その後、日本列島における旧石器時代の存在が明らかになった。平成18年に本ノ木遺跡の再調査が行われ、本ノ木遺跡の段丘は縄文時代に属することが明らかになった。土器はほとんど出土しないものの、石槍は縄文時代に属する可能性が高まった。旧石器時代から縄文時代への変遷を知る上で極めて重要な遺跡である。(遺跡は旧石器時代に一般的な丘陵上ではなく、河川の合流点に集中していることから、完新世に先立つ時期に新たな環境への適応を開始したことが分かる。
論争の原因は旧石器時代の週末から縄文時代の起源にかけての両者の歴史観の違いが調査所見の影響したとみられる。資料の蓄積が十分でない中、予め歴史観を設定したことが、解釈レベルでの相違を産んだと評価される(橋本(1988))。岡本東三は「包含層を誤認したのは山内ではなく、芹沢であることは明らかである」と述べた(岡本(2015))。小林達夫を異なる見解を提示した。「草創期の尖頭器が出土する遺跡に土器を持つものと土器を持たないものがある」とした(小林(1986))。今日でも本ノ木論争は集結していない。
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