聖徳太子
2023-05-09


''聖徳太子'(しょうとくたいし,574年-622年)は飛鳥時代皇親とされる。

概要

 「聖徳太子」は後世の尊称であり、日本書紀・古事記には「聖徳太子」とは書かれない。

史料では「廐戸皇子」「豐聰耳聖徳」「豐聰耳法大王」「法主王」(ここまで「書紀」)、「厩戸豊聡耳聖徳法王」「聖王」「「厩戸豊聡耳命」「上宮王」「東宮聖徳王」「上宮聖徳法王」(ここまで「帝説」)と書かれる。古事記には「上宮之厩戸豐聰耳命」と書かれる。 聖徳太子には様々な「謎」がある。

事績

文献において「廐戸皇子」に以下の事跡が挙げられている。

聖徳太子架空論

そこで聖徳太子には実在論と非実在論とがある。非実在論では「聖徳太子」は後世の創作との見解であるが、非実在論においても「廐戸皇子」は実在したとみている。 どこまでが後世の創作であり、どこまでが実在した「廐戸皇子」の事跡かを吟味する必要がある。

聖徳太子の誕生

574年(敏達3年)、父・用明天皇(橘豊日天皇)と母・穴穂部間人女王との間に生まれた(史料1、史料3、史料4)とされる。父母については、『日本書紀』と『上宮聖徳法王帝説』とで一致する。母・穴穂部間人女王は父の異母妹である。 生年は史料2に記載される。日本書紀に生年の記載はないが、上宮聖徳法王帝説記載の甲午年とすれば、敏達3年(甲午年)の574年となる。

「聖徳太子」名の疑問

坂本(1979)は「廐戸」を実名とみる。当時は、@生まれた土地、Aゆかりある人物、B乳母の氏名などからつける慣習であっとする(坂本(1979))。坂本は『上宮太子拾遺記』(鎌倉時代、僧法空)に「橘寺東南の辺り相承田地の文書に、今に廐戸の号あり」から生誕地から名がついたと考えるほかない、とする(坂本(1979))。

官位十二階

日本書紀603年に官位十二階(史料10)制度の創設が書かれる。その順は、「大コ・小コ・大仁・小仁・大禮・小禮・大信・小信・大義・小義・大智・小智」である。一方、隋書倭国伝600年の条に「大徳・小徳・大仁・小仁・大義・小義・大禮・小禮・大智・小智・大信・小信」の順で記載されている。大禮・小禮と大義・小義の順が入れ替わっている。大信・小信を倭国では上位に置いた。 順番が違う理由は、中国では徳を最初に置いて、以下は仁・義・礼・智・信の「五常の徳目」に合わせたと思われる。 当時は隋書倭国伝であったものを日本書紀編纂の段階で入れ変えた可能性がある。 冠位の制は、百済の官位制を中心として高句麗の制を参照してつくられたとする見解が有力であり、厩戸皇子の独創とする旧説は誤りとされる。理由は冠の授与者は、643年(皇極2)蘇我蝦夷がその子の蘇我入鹿に紫冠を授けたとの記事があり蘇我氏は授与者の側に立っていた。

聖徳太子非実在論

非実在論の提唱者は大山誠一である。その根拠は聖徳太子の確実な存在を示す史料が皆無であるというものである。すなわち大山誠一は厩戸王は存在したが、冠位十二階と遣隋使派遣の2つ以外の事跡は全くの虚構であるとした。

憲法十七条

津田左右吉は、憲法十七条の内容は次の点で推古12年にはふさわしくないと主張した。

  1. 国司はこの時代に存在しない。7世紀末頃以降であろう。

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[飛鳥時代]

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