土井ヶ浜遺跡(どいがはまいせき, Doigahama Heritage)は山口県下関市にある弥生時代の遺跡である。
関門海峡の北西、山口県下関市の響灘に面する海岸砂丘にある土井ヶ丘といわれる弥生時代の遺跡である。1953年(昭和28年)以来、1957年(昭和32年)まで、九州大学医学部教授の金関丈夫等により、その一部地域が発掘調査され、200体余の人骨が発見された。埋葬施設として礫石を四隅に配する簡單な施設、あるいは礫石を四周に長方形に囲んだ一種の石囲いをなす施設、さらに組合式箱形石棺などが見つかっている。これまでに延べ19回の学術調査により総計300体以上の人骨が発見されている。同じ方向を向いて埋葬されていた。頭向きはほぼ東枕である。弥生式時代前期の終り頃の集団墓地である。1953年の第1次調査で最初に出土した女性人骨は胸部から鵜の骨が検出された。鵜と共に埋葬されていた。
硬玉製勾玉、碧玉岩製管玉、貝製小玉、ガラス製小玉、貝製腕輪、貝製指輪等の装身具など。
縄文時代の人々の平均身長の比較は土井ヶ浜遺跡から大量の人骨が見つかったため、比較ができるようになった。 平均身長の比較
弥生人と縄文人との差が生まれた原因は大陸から渡ってきた人が縄文人と混血することによると主張した(混血説、渡来説)。これに対して鈴木尚は小進化説を唱えた。すなわち縄文人が進化して弥生人になったと主張した。 その後、弥生人と同じ形質をもつ人骨は朝鮮半島や山東半島から見つかり、混血説が正しいことが証明された。縄文人を母体として、寒い地方に適応して体が大きくなり、花の中の空間に暖かい空気を溜められるよう顔を大きくなった朝鮮半島の人々が日本列島に渡来して混血して弥生人が生まれた。
土井ヶ浜の弥生人の弥生時代から現代に至るまでの日本人の形質の変化やルーツを展示する人類学専門の博物館である。
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