誉田御廟山古墳
2023-05-25


誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん, Konda Gobyoyama Tumulus)は大阪府羽曳野市に所在する前方後円墳である。 「誉田山古墳」ともいう。宮内庁は「応神天皇陵古墳」と呼ぶ。

概要

古市古墳群のひとつで、日本一体積が大きい古墳とされる。面積は大山古墳についで二番目であるが、封土量では大山古墳より28,094m3より多い。宮内庁が管理しているため、立ち入った学術調査ができないが、高橋逸夫の墳丘土量計算によれば、1,433,960m3とされる。

構成

墳丘は三段築成で、左右のくびれ部両側に方壇状の造出しがある。この種の古墳の標準形とされる。前方部の西側の稜線が多少崩れているが、そのほかは明確である。 墳丘の周りに二重の周濠と堤がある。外濠の多くは田圃に使用されているが。東側と北側は、明確である。内濠と外濠の間の土堤は幅が広い。 墳丘と内堤の内外の法面に葺石が敷かれている。墳丘の平坦部と内堤・外堤に円筒埴輪が巡らされる。墳丘内部は調査されていないため不明であるが、竪穴式石槨と長持形石棺があると見られている。

規模

大山古墳(大阪府堺市)に次ぐ全国第2位の規模となっている。

副葬品

埴輪は朝顔形円筒埴輪、形象埴輪(家型埴輪・器財埴輪、動物埴輪、蓋・盾・靫・草摺短甲形、水鳥形(8体)、馬形)など。土製品は魚形(クジラ・イルカ・タコなど)。木製品は蓋形、鋤形、板状、棒状、天秤)棒状、傘状など。宮内庁、京都大学、東京国立博物館などに保管されている。

陪冢

東山古墳、アリ(蟻)山古墳(消滅)、誉田丸山古墳、栗塚古墳、東馬塚古墳は、推定築造時期から誉田御廟山古墳の陪冢とも考えられている。そのほか盾塚古墳、珠金塚古墳、鞍塚古墳などがある。これらの陪塚からは多量の鉄製武器、武具を中心とした鉄製品の埋納が認められている。 丸山古墳は嘉永年間に発掘され、副葬品として、金銅透彫鞍金具と、金銅轡鏡板(馬具)、金銅花形辻金具、鹿角装刀残闕、鉄鏃、鎧等残闕などが発見されている。金銅透彫鞍金具と金銅轡鏡板は国宝に指定され、現在は誉田御廟山古墳の南側にある誉田八幡宮で保管されている。二つ塚前方後円墳は誉田御廟山古墳の周濠がこの古墳を避けて作られていることから、陪塚ではなく、より古い時期の築造と考えられる。

築造時期

築造された時期は5世紀初頭とみられる。しかし異説もある。金銅透彫鞍金具の朝鮮半島の盛行年代から5世紀代でも末期から6世紀初めとする説がある。

被葬者

実際の被葬者は特定されていない。宮内庁は応神天皇陵に治定している。

日本書紀と古事記

古事記』には、「御陵在川内恵我之裳伏岡也」と書かれる。。「恵我(ゑが)」の領域は、現在の石川の流域の西側から東徐川流域にかけての藤井寺市、羽曳野市の比較的広い領域と考えられている。『日本書紀


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[古墳時代]

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