大塚初重
2023-06-12


大塚初重(おおつか はつしげ、1926年11月22日 - 2022年7月21日)は考古学者である。明治大学名誉教授、初代明治大学考古学博物館長。専門は弥生・古墳時代。

概要

1926年(大正15年)11月22日、父坂田友七、母フミの次男として東京都板橋区西台に生まれる。1928年(昭和3年)、3歳で大塚家の養子になり台東区に転居する。1933年、台東区育英小学校入学。1939年(昭和14年)、郁文館商業学校入学(1943年繰り上げ卒業)。

海軍時代

1944年(昭和19年)、海軍水路部、気象観測訓練生をへて横須賀海兵団に入隊、海軍二等水兵。1945年4月、19歳で海軍一等兵曹としてに二度、中国・上海に向かう。上海で敗戦を迎える。捕虜生活の中で中国海軍水兵に気象観測を教える。 乗船が米軍に二度撃沈され神国日本とする皇国史観に疑問を持った。自伝に「一度目の撃沈の際、ワイヤロープにつかまって助かった」。東シナ海を漂流し、気付くと済州島の浜辺にいて、民家に運ばれた。おばあさんが土間のかまどに火をたき、おかゆを長い金属のサジで食べさせてくれ、サツマイモの皮をむいてくれた。「すまんが、今晩また乗ってもらう」と言われ出港するが4、5時間後、に再び撃沈される。ボートを降ろして一般人を乗せ、軍人はボートにつかまり数時間、対馬海峡で漂流した。「なぜ神風は吹かないのか」「絶対に日本は負けないと固い決意だったが事実は違う」と戦時中の歴史教育に疑問を抱いた。

登呂遺跡の発掘

1946年、板橋区下赤塚の母の元に復員する。明治大学専門部地理歴史科(夜間)に入学する。商工省特許標準局勤務。 大塚青年は、終戦復員をへて入学した明治大学で後藤守一教授の講義を受け、考古学に衝撃を受け一生の道と定めた。1年生から考古学の講義があった。実物を分析して解釈をしていく。事実をもとに解明していく学問は面白いと感じた。 1947年から4年間登呂遺跡の発掘に参加した。最初の発掘であった。1947年4月に後藤守一教授から、登呂遺跡の発掘を開始するので勉強したい人は連れて行くと募集があった。10日間でも20日間でも参加して勉強をしたいと手紙を書いた。後藤守一教授からは、1ヵ月や2ヵ月のロングランでやってくれと言われた。そこで、商工省特許標準局を長期欠勤する必要があったので、医者に相談したところ、強度の神経衰弱の診断書を得た。職場に長期療養を願い出た。上司から、緩やかに仕事しないとまいるよ、どこに転地療養するのか、と問われて、静岡です、静岡のどこだと質問されて冷や汗タラタラとしたが、登呂に行けることになった。 発掘では後藤守一・明治大学教授が指揮し、東日本の主な考古学者が結集した。著名な各分野の研究者が集結して、さらに明治、東京、慶応、早稲田、国学院、実践女子、東京女子大学、日本女子大学などから約30人の学生が集まった。60%は戦争帰りであった。登呂に出発する前日に杉原荘助助教授から、平板測量の初歩を教わる。1947年7月13日が登呂遺跡の鍬入れ式であった。商業学校で学んだ簿記や会計の知識と捕虜時代の労役経験を活かし、発掘の傍ら、食料調達、会計、書記を担当する。食料は配給米は1日米2合3勺だがこれでは不足する。外食券、メリケン粉、大豆の粉、農家の残飯の残りを貰ってまぜてすいとんにする。静岡の魚市場に3日ごとに買い出しに行く。世界初の水田遺跡の発掘で、水田と村落の共存を発見した。

明治大学文学部


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