淡海三船(おうみのみふね、726年 - 785年7月17日)は奈良時代の官人・学者・文人である。大友皇子(弘文天皇)4世の孫である。淡三船、御船とも記す。
祖父は葛野王、父は従五位上・池辺王である。幼くして出家し元開と称した。751年に勅により還俗した。751年(天平勝宝3年)以前は三船王を名乗る。751年1月に臣籍に降下し、淡海真人を賜わる。遣唐学生の一員になったが疾を得て渡唐できなかった。756年(同8年)、大伴古慈斐と共に藤原仲麻呂(恵美押勝)の讒にあい、朝廷を誹謗したかどにより禁錮刑にされたが、許されて758年(天平宝字2年 ) に尾張介,761年(同5年)に従五位下・駿河守に叙任。また三河守となり,762年(同6年)に美作守。764年、恵美押勝の乱のときにはため池を造成するために近江国勢多にいた三船は造池使判官・佐伯三野と共に仲麻呂の使者とその一味を捕縛するなど、孝謙上皇側に加勢する。三階級昇進して正五位上へ昇叙し、勲三等の叙勲とともに、近江介に任ぜられた。神護景雲1年(767 年)に東山道巡察使正五位上行兵部大輔兼侍従勲三等、大宰大弐,宝亀3 (772) 年大学頭,文章博士となる。その後,大学頭をつとめる。780年(宝亀11年)従四位下に叙せられる。 藤原仲麻呂 (恵美押勝) のもとでは不遇であった。文人・学者としては,当時第一級の見識で知られていた。785年(延暦4年)7月17日死去。64歳。最終官位は刑部卿従四位下兼因幡守。
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