紀伊大谷古墳
2023-07-30


紀伊大谷古墳(きいおおたにこふん)は和歌山県和歌山市にある前方後円墳である。

概要

墳丘の大部分が自然の地形を利用しており、紀ノ川北岸の和泉山脈南麓の背見山丘陵先端尾根の突端から平野を見下ろす立地である。 谷古墳の主体部は石室を設けずに石棺を直接埋納する形式であり、石棺の形式や副葬品から5世紀末から6世紀の初め頃に造営されたと考えらる。古墳の北東の端には、円筒埴輪を並べ立てていた。  石棺内や主体部からは馬甲をはじめとする馬具や垂飾付耳飾など、朝鮮半島南部の影響の強いものが多く出土したことからも、この大谷古墳に埋葬された人物が大和朝廷や朝鮮半島とも深い関係を持っていたと考えられる。 大谷古墳は昭和32年に本格的な発掘調査が行われるまで盗掘された形跡がなく、銅鏡、ガラス製の勾玉、埴輪などの副葬品が多数発見された。その多くが朝鮮半島由来のものか、朝鮮半島の影響を受けたものであった。

馬冑

馬冑は、馬にかぶせる鉄製の兜である。大陸的要素をもつ精緻な馬装具である。多数の鉄小札を綴合わせた馬甲、馬頭を覆う上端に立飾りをつけた馬冑は、わが国古墳出土の遺品として特異なものであり、大陸的色彩の強いものである。わが国では馬冑は3件しか出土していない。韓国では福泉洞古墳群や玉田古墳群・馬甲塚など10例以上発見されていることから、この発見はこの地域において古墳時代から朝鮮半島と密接な交易があることが立証される。高句麗の三室塚には、馬冑・馬甲を描いた壁画がある。 日本の発掘例としては全国で3例であるが、今でも完全な形で発掘されたのは大谷古墳の馬冑だけである。1997年に中国でははじめて遼寧省朝陽市郊外の前燕時代に比定される十二台郷碑廠88Ml号墓より、鉄製馬冑・馬甲・馬具・甲冑が出土し(遼寧省文物考古研究所・朝陽市博物館1997)、注目を集めた。1990~2003年に行われた吉林省集安市の高句麗王陵の調査により馬冑・馬甲・甲冑・馬具・装身具が出土した。

調査

1957年(昭和32)に京都大学考古学研究室によって発掘調査が行われた。後円部墳頂から阿蘇凝灰岩製の組合式家形石棺が検出され、その内外から直刀、短甲などの鉄製武器・武具類、農工具類、金銅製鏡板、轡、鐙、杏葉、雲珠などの馬具類、玉類、装飾品類など豊富な副葬品が納められていた。木箱が置かれ、箱は腐朽してなくなったが、中の品物は残っていた。馬の口につける轡や、飾り金具があった。飾り金具は、金銅製で、美しい唐草文様がある。1959年に刊行された『大谷古墳』の報告書は、その後の馬具研究に大きな影響を与え続けた。

規模

外表施設

遺構

遺物

時期

築造時期は5世紀後半から6世紀初頭と考えられている。

被葬者

20歳から30歳くらいの人骨が出土している。被葬者は、朝鮮半島へ遠征軍として赴いた紀氏一族の武将といわれる。多くの武器が見つかったことから、墓の主は武人と考えられている。

指定


続きを読む

[古墳時代]

コメント(全0件)
コメントをする


記事を書く
 powered by ASAHIネット