高地性集落(こうちせいしゅうらく, Highland village)は弥生時代中期から後期に、平地から数十メートル以上の標高差のある山頂や丘陵の尾根に作られた集落である。
この時代には水田耕作の発達により低地性の立地が多い時期であるが、高地性集落が登場したことは、その背景を巡って様々な説がある。焼畑説、洪水回避説、祭杷場説、軍事的施設説などいろいろな説が提唱されている。平野や海など周囲を眺望できる山頂や丘陵の尾根上などに形成されている。
。高地性集落役割についてはいろいろな説があるが、見張り台やのろし台、逃げ城といった役割が想定されている。石鏃などの武器の出土が目立つことから、戦いに備えた集落が多い。水稲農耕には向いていない場所に集落が営まれている。大阪湾に面した高地や瀬戸内海沿岸の地では、高台に空濠や土塁をめぐらし、その内側に住居を構えた例も見られる。 比高の高い台地や山頂に防衛的あるいは畑作農耕を営む目的で形成され、集団間の軍事的緊張に備えた防御的集落説が有力である。
小野忠熈(1970)は論文「考古地理学からみた弥生式高地性集落の機能」により、高地性集落の名を定着させた。
高地性集落の出現場所は瀬戸内海から近畿地方までの範囲に分布する。北部九州には高地性集落は見られない。高地性集落遺跡の多くは平地や海を広く展望できる高い位置にあり西方からの進入に備えたものであり、焼け土を伴うことがあるが、「のろし」の跡と推定されている。紀元前1世紀から紀元3世紀にかけて、北部九州から瀬戸内沿岸、畿内にかけて地域間で軍事衝突を伴う政治的紛争が絶えなかったという推測がされている。 「倭国乱」と高地性集落は関係があると考えられている。
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