法隆寺金堂薬師如来像光背銘(ほうりゅうじ こんどう やくしにょらいぞう こうはいめい)は奈良県の法隆寺にある薬師如来像の光背の裏面に刻された90文字の銘文である。
本銘文は年紀を有する金石文として法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘とともに知られている。 しかし、推古15年(607年)に法隆寺を建立したときの造立とは断定できない。 「聖王」と書かれていることから、聖徳太子信仰が生まれる年代が想定される。推古朝よりかなり後代の成立と考えなければならないであろう。 銘文は縦29.7cm余、横13.2cm余でに、90字を5行で陰刻する。1行目から順に、16字・19字・18字・19字・18字ある。
早稲田大学のサイトに画像が公開されている。釈読は次の通りである。
「用明天皇が病気の時、平癒を念じて寺(法隆寺)と薬師像を作ることを誓ったが、果たさす前になくなった。のちに小治田大宮治天下大王天皇(推古天皇)と東宮聖王(聖徳太子)が遺詔を奉じ、推古15年(607年)に建立した。
「池邊大宮天皇」は用明天皇(〜587)のことであり、用明天皇が病気のときには、推古はまだ天皇(大王)ではないので、推古天皇を大王天皇と書くこの銘文はすくなくとも推古天皇即位後に書かれている。大王天皇の呼称は「大王」がアマタリシヒコの称号であるから、さらにアマタリシヒコの没後に製作年はずれ込む。
天武・持統朝以後の成立という意見が多くの支持を得ている。
本銘文は7世紀後半の筆跡の刻字と推定されている。理由は(;1)初唐の頃の書風(隋唐書風)である、(;2) 金剛場陀羅尼経の書風と類似するが、本経の書写年次は大宝令以前の686年(朱鳥元年)とするのが定説である。
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