神仙思想(しんせんしそう,英divine thought)は古代中国の民間思想であり、、はるか遠くの東海にある蓬莱山や西方の果ての崑崙山に神仙が宮殿に住むという思想である。
神仙は不老不死(死なないこと)や飛昇(空を飛ぶ)といった特殊な能力をもつと考えられていた。『抱朴子』によれば、不老不死になるためには修行によって生を養う養生術と、丹(金丹)という薬を服用するという錬丹術が書かれる。中国では漢代(BC202年からAD220年)を中心として神仙思想が流行した。富貴、長生、子孫繁栄などの現実的な利益を求め、常世国や神仙境への憧れがあった。神仙蓬莱思想は倭国には飛鳥時代に入ってきたとされる。後世の禅寺の庭にも蓬莱山が作られている。
神仙には「西王母」と「東王父」とがある。崑崙山に住む西王母は、全ての仙女(女仙)を統括する。3000年に一度だけ開花し実を結ぶする桃(仙桃)や仙薬を保有しており、これらを食べると長寿になれるという伝説がある。東方の蓬莱山 上に住む東王父は男の仙人を統率する。「東王公」「東父」ともいう。山東半島のはるか東の海中に蓬莱山などの神仙境があるとされる。
神仙思想は道教思想の基礎となっている。道教は、神仙思想・老荘思想・黄老思想・五斗米道など数多くの思想を取り入れて成立した多神教である。 不老長生とは、肉体を健全にし、生命の永遠を願うもので、道教は不老長生を目的とした。道教では不老長生を得るための手段の一つとして、種々の儀礼を行う。儀礼には、道教の戒律を受けた道士によって行われるものと、法師など道士以外の人々により行われるものがある。
漢式の神獣鏡は神仙思想を図像にしたものであり、神仙として西王母と東王父が描かれている。神獣鏡は中国の漢代後半から六朝初期に盛行した。
秦の始皇帝は不老不死を願って仙薬を求め、徐福を蓬莱山に派遣した。徐福の目指した蓬莱山は日本と言われている。徐福が日本に来たという伝説が残っている。徐福は不老不死の仙薬を探すために、3000人の童男童女を引き連れて船出し、日本の熊野にたどり着いたとされる。司馬遷が『史記』に記載しているため、徐福は実在した人物と考えられている。日本の和歌山県新宮駅から東100mに「徐福の墓」がある。
唐古鍵遺跡から出土した褐鉄鉱の塊の中空部分に勾玉を収めたものは中国では「壺石」「鳴石」「鈴石」と呼ばれる。辰巳和弘はその粘土の塊を「兎餘粮」「太乙兎餘粮」として仙薬と珍重されたものと紹介する。これを服用すれば、空を飛び、寿命を延ばすことができると『抱朴子』に書かれるからである。
神仙思想における蓬莱山が山東半島のはるか東の海中にあるという地理的情報は『魏志倭人伝』の邪馬台国の位置と関係があるのではないだろうか。『魏志倭人伝』の行程を(放射状説を取らないで)そのまま解釈すれば、山東半島のはるか東の海中になるからである。日本に大陸から伝わった蓬莱山の神仙思想は後代まで影響を与えた。江戸時代の画家である鈴木鵞湖は「蓬莱山図」を描いている。多くの仙人たちが鶴や鳳凰、龍に乗って天空から舞い降り、亀や魚に乗って集う姿が描かれる。
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