調銭(ちょうせん)は税金である調を物品ではなく、銭で納めた銭をいう。
租庸調は飛鳥時代から奈良時代に施行された税制度である。 調は布や各地の特産物(絹・糸、紙・工芸品など)を税として物納するものである。 708年(慶雲5年)正月、武蔵国から銅がとれたとの報告がなされた。政府は「和銅」と改元し、5月に銀の和同開珎、八月には銅による銭(和同開珎)を発行した。鋳銭司で銭を作っていた。 律令の規定では、調は物品で納めると規定されているが、銭の流通を図るため、調銭が新設された。709年には銀銭の流通を禁止し、銅銭だけを流通貨幣とした。 711年(和銅4年)には貴族の給料の一部を銭とした。712年(和銅5年)には、平城京造営の日当に一文(和同開珎一枚)が支払わた。 畿内近辺で税の調庸を銭で納めさせることにより銭を流通させる仕組みを作ったものである。当初、銭納は畿内だけであったが、722年(養老6年)には、伊賀、伊勢、丹波、播磨、紀伊などに広げた。
平安時代には銭の流通を京と畿内だけに限定されたようである。「延喜式」では、左右京、山城、大和、河内、摂津、和泉の調銭が規定された。銭を都とその周辺に集中させるような政策をとったのである。銭の流通、畜銭が進んだため、都近辺では銭が不足し、また9世紀に入ると原料の銅が不足するようになったためと推測される。
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