'古代の交通ルール(こだいのこうつうるーる)は2024年12月08日に開催された古代の交通ル-ルに関する講演会である。
講演は主として時代の逆順で行われたが、ここでは時代順で説明する。
弥生時代にすでに道路交通ルールがあった。『魏志倭人伝』に道で偉い人に出くわしたら、身分が下位のものが道を譲ると書かれる。道を譲る行為は身分の上下関係の可視化とみられる。
670年(天智9年)、天智大王が「行路の相避ることを宣ふ」(『日本書紀』第廿七 天智九年春正月条、宣朝庭之禮儀與行路之相避)と勅したと日本書紀に書かれる。道路で出会ったら互いに避けるという意味である。弥生時代と同様の交通ルールである。
奈良時代の太宰府の条坊から奈良時代の柵の跡、道路と側溝が発見された(大宰府条坊跡第 357 次調査)。路面幅は約3m、東側溝は幅約2m、深さ0.5m、西側溝は幅約2.5m、深さ0.5mの直線道路であった。路面に幅5cmの筋状の溝(轍の跡)が残り、また牛の足跡も残る。「荷物を運ぶ車両は道路を通り、それ以外の人や牛は側溝を歩いていたのではないか。車両と歩行者を分離していたとも考えられる」とされるので、歩車分離の交通と見られる。牛の蹄の跡から左側通行と推定されている。
公家の礼法では牛車がすれ違うとき、左に避けるルールがあった。しかし平安京の発掘調査では車の轍は道の中央を通っていた。
『宇治拾遺物語』では左側に避けている(大膳の大夫以長、前駆の間の事)。『極楽寺殿御消息』(北条重時、1198年~1261年)では相手が高貴なら左に避けると書かれる。公家社会のルールであったと想定される。
『石山寺縁起絵巻』(巻1)で人は左側を通行している。『中島摂津守宗次気』(1558)は路地でで輿に出会ったら右に退き、左を輿に通す。
平和の時代 右側によける戦国時代のルールは変化する。理由は敵意がないことを示すため(刀を使えない)自分から見て左側に避けるようになった。身分を示す刀が相手に当たらないようにする意味がある。『海陸行程細見記』(増補:1836年)は右に除けると無礼になると示している。武士のルールが庶民まで広がったと見られる。
右側または左側の通行は「礼」と密接に関係する。何らかの社会的な合意がないと、無用な衝突が起こる。江戸時代の生麦事件も交通のお約束(ルール)を知らなかったために起きた歴史的事件である。
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