岡倉天心
2025-03-26


1880年(明治13年)7月に東京大学を卒業して、9月フェノロサの通訳として、奈良・京都の古社寺を回る。10月から文部省専門学務局に勤務し、音楽取調係は兼務となった。1882年5月、フェノロサは龍池会に招かれ、「美術真説」を公演した。 1883年(明治16年)、フェノロサの通訳として、狩野芳崖宅を訪問。 1884年(明治17年)、フェノロサ、狩野鉄哉らと古寺調査。法隆寺夢殿の救世観音を開扉させた。「鑑画会」を設立。九鬼隆一、狩野芳崖、橋本雅邦らが参加。 1885年(明治18年)、牛込筑土八幡の元旗本屋敷に転居。 1886年(明治19年)、フェノロサ、4月、芳崖らとともに奈良・大阪で古美術調査。「天心」の号を用いる。10月、フェノロサと欧米視察。 1887年(明治20年)10月、帰国。東京美術学校幹事となる。開校準備。 1889年(明治22年)、東京美術学校第一期生として横山大観、下村寒山ら入学。5月、帝国博物館理事。美術部長に就任。 1890年(明治23年)7月、フェノロサは東京美術学校雇を辞任し帰国する。9月、東京美術学校で「日本美術史」「泰西美術史」を講義開始。10月、27歳で東京美術学校校長に就任。 1893年(明治26年)、宮内省の命令で、中国へ第1回目の古美術調査旅行。12月帰国。 1898年(明治31年)「築地警醒会」の名で岡倉を誹謗した怪文書がばらまかれる。 「美術学校騒動」で東京美術学校校長、帝国博物館理事・美術部長、パリ万国博覧会臨時博覧会評議員を辞職。10月、谷中に日本美術院を開院。 1903年(明治36年)、五浦に土地を購入。 1904年(明治37年)、4月、ボストン美術館のエキスパートとなる。11月『日本の覚醒』をニューヨークのセンチュリー社より刊行する。12月『東洋の理想』をニューヨークのダットン社より刊行する。 1905年(明治38年)、美術品収集のため京都、奈良旅行。ボストン美術館、中国・日本美術部の顧問就任。 1906年(明治39年)、『茶の本』をニューヨーク、フォックス・ダフィールド社から刊行する。 1910年(明治43年)、4月から6月、東京帝国大学で「泰東巧芸史」を講義。5月、某トン美術館中国・日本美術部長を任命される。 1912年(明治45年)、11月から5回目のボストン美術館勤務。 1913年(大正2年)腎臓炎が再発、9月2日、新潟県赤倉温泉の山荘で永眠、同日、従四位・勲五等双光旭日章を贈られる。

Wikipedia日本語版の誤り

「岡倉天心」来歴の項に「1878年(明治11年)基子と結婚。」とあるが、誤りである。結婚当時は「基子」の名前ではなかった。また1878年ではなく正しくは1879年である。家族の項には「1879年に結婚した」と書かれている。

著書

  1. 岡倉天心(1906)『茶の本』
  2. 岡倉天心(1906)『東洋の理想』
  3. 岡倉天心(2001)『日本美術史』
  4. 岡倉天心(1904)『日本の目覚め』

参考文献

  1. 清水多吉(2013)『岡倉天心』中央公論新社
  2. 新井恵美子(2004)『岡倉天心物語』神奈川新聞社

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