岡倉天心
2025-03-26


岡倉天心(おかくらてんしん,1863年-1913年)は明治時代に日本美術の革新に貢献した学者、美術指導者・思想家である。海外では『The Book of Tea(茶の本)』の著者として知られる。本名は岡倉覚三。幼名は岡倉角蔵。

概要

出生

幕末の1863年(文久2年)、岡倉覚右衛門(岡倉勘右衛門の説もある、通称は善右衛門・金右衛門・全右衛門)、母岡倉この(旧姓野畑)の次男として横浜本町甫丁目に生まれた。父は福井藩士で藩命により横浜で貿易商(生糸の輸出)を営んでいた(屋号「石川屋」)。なお巣鴨の染井霊園内にある岡倉家の墓には、父は岡倉勘右衛門と記されている。父は1896年(明治29年)7月9日、没年77歳、母このは明治 3年4月3日(1870)没。後妻の静明治32年(1899)1月9日没。生糸を扱う貿易商店・石川屋は1860年(安政7年)に開店した。 岡倉天心は貿易商店・石川屋店を訪れる外国人客から幼少時より英語に慣れ親しんでいた。

教育

1869年(明治2年)、8歳でアメリカ人宣教師ジェイムス・バラ―(James Hamilton Ballagh)の英語私塾で英語を学ぶ。この私塾が英学塾高島学校になると、ジェイムス・バラ―の弟のジョン・バラ―に英語を学ぶ。寺内正毅、本野一郎、宮部金吾、星亨らも共に学んだ。1871年(明治4年)、父に伴われて川崎大師に参詣したとき、東京府と神奈川県界に建つ標示杭を示されて読んでみろと言われたが一字も解することはできなかった。これを恥じた天心は国語の学習をさせてくれるよう父に迫り、菩提寺長命寺の玄導和尚に託されて、漢籍を学ぶことになった。『大学』『論語』『中庸』『孟子』を学んだ、 1873年(明治6年)、父は石川屋をたたみ、日本橋蛎殻町に転居し、旅館を始めた。1873(明治6)年、官立東京外国語学校(現東京外国語大学)に入学する。1875年(明治8年)、東京開成学校に11歳で入学し、1877年(明治10年)、同校が東京大学と改称されるに伴い文学部に籍を移した。同期には文学部に井上哲次郎、牧野伸顕、医学部に森林太郎がいた。 1878年(明治11年)東京大学文化大学3年在学中に、来日した米国人教師フェノロサに出会う。また同時に漢詩を森春濤、奥原晴湖に文人画、琴を加藤桜老に習う。美術・文芸への興味はこの頃から抱いた。フェノロサは、英語に堪能な天心を通訳とし、フェノロサの美術品収集を手伝う。天心もフェノロサの研究対象に興味をもつ。 1879年(明治12年)、17歳で大岡もと(元子、のちに基子)と結婚する(参考文献1,p270)。大岡元子は大岡定雄の娘で、赤坂の茶会(茶店とも)で天心と知り合い、岡倉旅館で働きはじめ、1879年に結婚した(参考文献2)。政治学・理財学を学び、英文により「国家論」を東京大学の卒業論文としたが、妻の元子に焼かれてしまい、急遽「美術論」を提出した。

美術行政


続きを読む

[古代史人物団体]

コメント(全0件)
コメントをする


記事を書く
powered by ASAHIネット