藤井千尋
2025-07-02


藤井千尋(ふじい ちひろ、1837年- 1900年3月15日)は、幕末勤王の志士、明治期の内務官僚である。第一次奈良博覧会の開催に尽力した。

概要

1837年(天保8年)に上野国群馬郡(現群馬県高崎市)で生まれる。幼名は弘助であったが、1870年(明治3年)に千尋と改名した。20歳頃に幕府御馬所見習いとなる。 明治維新後、藤井千尋は明治政府に出仕し、1869年7月12日(明治2年6月4日)に徴士弾正台大巡察に任官される。1870年(明治3年)10月、堺県大参事に任命される。1871年(明治4年)11月22日、堺県権参事に任命される。1872年(明治5年)7月8日、堺県参事に任命される。1872年(明治5年)11月10日、従六位となる。 廃藩置県後、最初の県令である四条隆平が退任した後、青山貞が奈良県権令に就任する予定であったが、赴任しないまま他の任務についたため、代わりに堺県参事であった藤井が1873年(明治6年)11月19日に奈良県権令に就任した。1874年(明治7年)2月18日、正六位となる。 1876年(明治9年)4月、奈良県が廃止され、堺県に合併され廃官となり、従五位となる。 1883年(明治15年)11月4日、能勢豊島郡長となる(月俸50円)。 1886年(明治18年)11月、大阪府の生國魂神社宮司・松下髦aの辞職に伴い、生國魂神社宮司に就任した。1900年(明治33年)3月15日に逝去した。63歳没。

第一次奈良博覧会

湯島聖堂大成殿を会場に博覧会が開催されたあと、産業振興を目的として、奈良県でも博覧会の開催が計画された。 1874年(明治7年)8月、奈良県権令・藤井千尋のすすめで、植村久道・鳥居武平ら奈良町の有力者が中心となって奈良博覧会社を設立し、翌1875年(明治8年)4月1日から6月19日までの80日間、東大寺大仏殿と廻廊を会場に第一次奈良博覧会が開かれた。書画、古器古物、動植物標本、機械類が展示された。東大寺・法隆寺・春日大社など大和の有力な社寺や諸家が所蔵する什宝や書画などが、多数出品され、また明治5年の壬申検査で開封された正倉院御物が出陳された。正倉院からは鳥毛立女屏風、紅染象牙尺、黄熟香、紫壇碁局、金銅投壷、木製黒漆水瓶などの名品が出品された。第1次奈良博覧会の観客数は17万人を超え大人気であった。博覧会は1890年(明治23年)まで続いた。神仏分離政策等によって散逸の心配があった多くの宝物類の認識が高まった。 1875年(明治8年)の奈良博覧会で赤漆文欟木御厨子の1枚の扉が紛失した。博覧会の関係者で奈良県権令の藤井千尋の自宅で発見され、返却された(由水常雄(2006))。

奈良県での業績

奈良在任期間中の業績ととしては、大区会議所の整備・大区小区の組み替えなど、大区小区制の整備、地租改正事業の実施、「学制」以後の小学校の整備、小学教員伝授(伝習)所以降の教員養成機関の設立などである。

参考文献

  1. 奈良国立博物館(2008)『正倉院展60回の歩み』奈良国立博物館
  2. 東京国立博物館(1981)『特別展 正倉院宝物』東京国立博物館
  3. 由水常雄(2006)『天皇のものさし』、麗澤大学出版会
  4. 奈良県(1987)『青山四方にめぐれる国 : 奈良県誕生物語』奈良県
  5. 和田萃,幡鎌一弘,谷山正道,山上豊,安田 次郎(2010)『奈良県の歴史』(県史29)山川出版社
  6. 国立公文書館(1892)「第五類 諸官進退・官吏進退」明治十九年官吏進退五・内務省三止
[古代史人物団体]

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