魏の使者の到達場所
2025-08-11


非到達説は根拠と説得力に欠けると見られる。『魏志倭人伝』は旅程記事と政治記事をまとめて構成しており、伊都国以後の記述だけが抽象的だからといって、「邪馬台国に未到達」と断定するのは難がある。邪馬台国の宮殿の様子の具体的な記述について、伝聞だけで説明するのは根拠が弱い。一方、『拝假』表現が曖昧との指摘もある。実際に面会したのか、または形式的な上申のみであるのか、評価は分かれる。 一大率に代行してもらい、冊封儀式を疎かにするのは魏の時代にあったという証拠は見当たらない。魏晋の外交では対匈奴、対鮮卑など皇帝の冊命を現地使節を通じて直接執行する例が多いとされる。つまり実際に使節を派遣し、官位や称号の授与(王号)を相手の王がいない現地で行った記録がある(『魏書』匈奴伝、鮮卑伝)。後代になると、唐の太宗(李世民)がヒルティック・カガン(突厥)との交渉時、河川を挟んで会見して交渉を行い、冊封を想起させる地位を与えた記録がある。明の永楽帝は、チムール(ティムール朝)の後継であるシャー=ルフとの外交関係において、冊封式を巡り柔軟な対応を取っているとされる。しかし明朝・永楽帝や唐の太宗(李世民)における事例は魏の時代からは遠いので、政治体制・外交制度の発展段階が異なるため、直接的な類推により魏の時代に面会せずに任命したかどうかは注意が必要となる。 また『魏志倭人伝』の伊都国以後の旅程全体を否定するためには評価の材料が不足しているといえる。

考察

古代史の専門家は概ね「拝仮」を正しく解釈しているといえるのではないか。倭王が感謝の言葉を発したということ、宮殿の様子の具体的な描写は実際に倭王に面会した証拠とみることができる。

参考文献

  1. 石原道博編訳(1951)『新訂魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝』岩波書店
  2. 西嶋定生(1994)『邪馬台国と倭国』吉川弘文館
  3. 近江昌司、置田雅昭他(1992)『卑弥呼の時代』学生社
  4. 水野祐(1987)『評釈 魏志倭人伝』雄山閣

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