水行十日、陸行一月(すいこうとおかりくこうひとつき)は『魏志倭人伝』に記された投馬国から邪馬台国までの経路である。
「水行十日、陸行一月」の釈読部分は「南へ向かって邪馬台国に至るには、水路で10日、陸路で1か月かかる。その国には『伊支馬』という官があり、次に『彌馬升』、次に『彌馬獲支』、次に『奴佳』という官がある。およそ7万戸の民がいる。」(原文は「南至邪馬壹國女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳、可七萬餘戸」)である。
「水行十日、陸行一月」には連続説と選択説とがある。連続説では水路で10日進み、さらにそこから陸路で1ヵ月進むことにより邪馬台国に到達するとの順番を表す。選択説では水行十日または陸行一月で到達できる場所に邪馬台国があるとする。それぞれ有利不利がある。
(理由1)「水行十日陸行一月」の間に接続詞「或(または)」や「並(かつ)」が使われておらず、選択肢的な表現はない。
(理由1)連続説は畿内説では、投馬国から瀬戸内海を古代の舟で水行十日いくと現在の大阪湾に着く。陸行一月は大阪湾から奈良まで行くのには長すぎる。 (理由2)九州説では連続説では移動距離が長くなり、北部九州から(南に)「水行十日+陸行一月」では、九州を飛び出す。
(理由1)畿内説では水行で十日すれば現在の大阪湾に着くので、そこから1日もあれば奈良盆地に着く。
(理由1)水行十日と陸行一月の選択とすると、水行十日と陸行一月とは同等の距離なのかという問題がある。唐の法典集『六典』によると、1日当り陸行50里、水行65里とされている。これが正しいとすると、水行十日の距離は650里すなわち。約414m×650=269kmである。陸行30日×50×約414m=621kmとなる。即ち選択説なら陸行と水行は同等の距離でなければならないのに、2.3倍も異なる。なお魏の時代の1里の距離は414mであることは、「短里説」の記事で説明している。すなわち選択説は矛盾を抱えている。
不弥国までの旅程は「七千余里」「千余里」「百里」など距離表示であるが、不弥国から投馬国までは「水行10日」、投馬国から邪馬台国までは「水行十日、陸行一月」と突然に日数表示に切り替わる。この理由を、佐伯有精(2000)は倭人伝が依拠した原史料が異なる為とした見解が妥当であるとした(佐伯有精(2000)、p.70)。
選択の経路を記した資料の例に『漢書 西域傳上』(末尾)「西至捐毒千三百一十四里、徑道馬行二日」(「西、捐毒に至るには千三百一十四里、徑道を馬行すれば二日」)がある。尉頭国王が治める尉頭谷から東に迂回する近道の山中を利用すると捐毒国王が治める尉頭谷に馬で2日で行けるという意味である。これは出発地と目的地は同じだが、異なる経路の例である。次に『通典 州郡十四』に「去西京陸路一萬二千四百五十里,水路一萬七千里」(西京を去ること陸路一万二千四百五十里、水路一万七千里)と書かれている、これも複数経路とする。 しかし『水行十日、陸行一月』は@複数路の併記では「道」「路」が用いられるのが通例であり、「行」により併記する例は見当たらない、A三世紀の倭人の航海術の速度は徒歩と同程度であり、陸路が水路の3倍の距離があることは不自然である、B水行十日、陸行一月の選択とすると倭人伝の他の記述と矛盾する。「女王国までは戸数、道里のあらましを記載できた」と書かれるので、複数路の併記はあり得ないと指摘する(山尾幸夫(1986))。
邪馬台国の位置は文献だけでは決まらないというのが、筆者の見解である。なぜなら、『魏志倭人伝』の筆者(陳壽)は現地を歩いていないし、見てもいない。当時に存在していた資料をつぎはぎして『魏志倭人伝』を構成しているから、信用度の異なる情報が混在してしまっている。
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