高橋貝塚 (南さつま市)
2025-09-17


高橋貝塚 (南さつま市)(たかはしかいづか)は鹿児島県南さつま市に所在する弥生時代後期の貝塚である。

概要

南九州の代表的な弥生後期の貝塚である。万之瀬川の支流の堀川の右岸の砂丘内縁の河岸段丘上にある貝塚である。弥生前期の高橋式士器の標式遣跡となっている。ゴホウラ貝、オオツタノハ貝輪などから南西諸島と西北九州の貝の交易ネットワークの中継地点とともに加工場所と見られる。標高10〜11mの地点に貝塚があり,周辺の水田からの比高差は約 7m である。再整理により、弥生前期中葉より古い縄文晩期の夜臼式土器、弥生時代前期前葉の突帯文土器が下層にあることを発見した。石包丁の素材は対馬産菫青石ホルンフェルスが 使われ、柱状片刃石斧の石材には朝鮮半島南部の層灰岩が使われていた。有明海湾岸からの搬入と見られる。遺跡の出土石器数の分布から,多くが「壱岐島→福岡平野→二日市地峡帯→佐賀平野」へ持ち込まれて使用された。弥生中期の層で有明海沿岸からの搬入品が確認されたことから、弥生中期まで高橋貝塚は中継地点として機能していたと考えられる。貝塚形成は西北九州系農耕民の入植の初期段階での食料獲得状況を表している。貝輪交易の中継地として使用され始めた時期には水田稲作は定着せず,狩猟・漁労に依存していたとみられ、その頃の時期に高橋貝塚が形成された。その後水田稲作の収量が安定し,周辺の地域の生産物の交換経済に組み 込まれた結果,定着性が高まり,弥生中期集落が形成された。

調査

1962年(昭和37年)8月2 日(木)から8月12日に金峰町教育委員会の調査が行われ、河口貞徳らによる発掘調査が行われた。1963年に発掘調査が行われた。貝塚のほかに住居跡や土坑がみつかった。1963年(昭和38)年)8月は県教育委員会・金峰町教育委員会の援助を得て河口貞徳らが調査した。調査期間は8月15日(木)から8月27日(火)である。1965年には『考古学集刊』で発表され、高橋1式土器〜高橋4式土器が設定された。 最下層は夜臼式土器を含む突帯文土器の時期であるとされ、綾羅木V式土器は貝層から出土しており,年代的に整合する。 遺物は、土器として甕形土器、甕形土器、壺形土器、彩色壺形土器、突帯文土器、壺形土器、縄文時代晩期土器(夜臼式土器)、弥生時代前期土器(高橋T式・U式,板付T式・U式を中心とする)、弥生時代中期前葉土器が出土した。少量の擬無文土器が混入しており、朝鮮系無文土器の中で後期無文土器と言われる一群である。福岡平野や佐賀平野、熊本平野に集中している。 貝製品としてゴホウラ、ゴホウラ貝輪未製品、骨角貝製品、管玉、鹿角、牙製品、骨鏃がある。そのほか釣針、鉄器など。 石器として、紡錘車、石剣、石槍・尖頭器、打製石斧、磨製石斧、柱状片刃石斧、石鎌、石鏃、石包丁、穿孔具、石錐、石匙、磨石・敲石,石皿,砥石,軽石製品、朝鮮式磨製石鏃、などが出土した。

遺構

遺物

指定

展示

アクセス

参考文献

  1. 鹿児島県立埋蔵文化財センター(2024)「高橋貝塚1」鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書(226)
  2. 鹿児島県立埋蔵文化財センター(2024)「高橋貝塚1」鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書(226) 鹿児島県立埋蔵文化財センター(2025)「高橋貝塚1」鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書(229)
[弥生時代]

コメント(全0件)
コメントをする


記事を書く
powered by ASAHIネット