前橋八幡山古墳
2026-01-26


前橋八幡山古墳(まえばしはちまんやまこふん)は、群馬県前橋市朝倉町に所在する古墳時代前期の前方後方墳であり、旧上川淵村における「上川淵村67号墳」としても知られる。

概要

広瀬川流域には、本古墳のほか前橋二子山古墳、天神山古墳、不二山古墳などの大型古墳が分布し、これらは一般に広瀬古墳群と総称される。前橋八幡山古墳は前方後方墳としては全国的にも有数の規模を有し、東日本における同墳形の代表例の一つと位置づけられている〔注1〕。

本古墳の周囲には、かつて円墳・小規模墳を中心として少なくとも66基の古墳が存在していたとされるが、都市化や耕地整理の進行により、現在では前橋八幡山古墳を除いてすべて失われている。この点は、当該地域が古墳時代前期における有力首長層の墓域であったことを示唆する重要な資料である。

墳丘は現在一部のみが現存するが、構造的特徴はきわめて明瞭である。墳丘裾部には、河原石を用いた精巧な葺石が確認され、約38度という急峻な傾斜をもって地表下まで連続している。また、裾部の根石には直径30cmを超える大型石材が用いられ、基底部を補強する列石(根固め)として石垣状に配列されている。これらは、東日本の古墳としても高い施工技術水準を示すものと評価されてきた〔注2〕。

後方部墳頂には盗掘坑が認められ、その約1.5m下方からは長さ数メートルに及ぶ玉石敷が確認されている。大正時代の盗掘により、後方部墳頂で竪穴系埋葬施設が発見されたと伝えられるが、当時の記録は限られており、施設の詳細な構造や副葬品の内容については不明な点が多い〔注3〕。

墳丘盛土の下位からは、浅間山の噴火に伴うC軽石層が確認されている。この層位関係から、築造年代を4世紀中葉から後半に求める見解が提示されてきた。一方で、前方後方墳という墳形や周辺地域の古墳編年との比較から、4世紀前半にまで遡る可能性を指摘する意見もあり、築造年代については一定の幅をもって理解されている〔注4〕。

考察

前橋八幡山古墳の性格を考えるうえで、近年注目されているのが東海地方との関係である。若狭徹(2016)は、3世紀前半以降、上毛野および北武蔵の低湿地帯に東海西部系の外来集団が大量に移入した可能性を指摘している〔注5〕。前方後方墳は東海地方で顕著に展開した墳形であることから、こうした人の移動や人的ネットワークが、本古墳の築造背景に関与した可能性が想定される。

もっとも、前方後方墳の採用を単純に「東海系集団の移住」と結びつけることには慎重であるべきであり、婚姻関係、同盟、威信財・築造技術の受容など、複合的な要因によって墳形が選択された可能性も考慮する必要がある〔注6〕。

このような広域的な人と文化の移動は、古墳時代に突如出現したものではない。弥生時代後期以降、東海地方西部・東部系の土器様式、特にS字状口縁台付甕などが東京低地や北西関東の遺跡から多数出土するようになり、方形周溝墓をはじめとする葬制の要素も共有されるようになる。前橋八幡山古墳は、こうした弥生時代以来の交流関係を背景として、古墳時代前期における地域首長権力の形成と顕在化を示す記念碑的存在と評価できるであろう。

規模

葺石

遺構

遺物

築造

展示

  1. 前方後方墳の規模比較は全長・後方部幅など基準が一定しないため、近年は「全国有数」とする事が多い。
  2. 葺石構造・根石の精緻さは、畿内系大型前期古墳との技術的比較の観点からも注目されてきた。
  3. 戦前の盗掘事例は文献記録が乏しく、後世の伝聞を含む場合が多い点に留意が必要である。
  4. C軽石層(浅間山起源)は北関東古墳編年の重要指標だが、降下年代と築造時期の関係解釈には幅がある。

続きを読む

[古墳時代]

コメント(全0件)
コメントをする


記事を書く
powered by ASAHIネット