井出二子山古墳
2026-01-30


井出二子山古墳(いでふたごやまこふん)は群馬県高崎市にある古墳時代の前方後円墳である。

概要

榛名山の東南山麓に位置し、井野川左岸に立地する。所在地の標高は約130mである。 周囲に堀と堤がめぐり、周囲に堀と堤がめぐり、墳丘長は約108mを測る。墳丘の外側には内堀・外堀からなる二重周濠が巡り、周濠内には4基の円形中島が設けられている。中島からは在地生産とみられる須恵器が出土している。中島では地元で生産した須恵器が出土した。墳丘全面には葺石が施され、墳丘上には円筒埴輪および朝顔形円筒埴輪が巡らされていた。後円部の埋葬施設には舟形石棺が収められる。保渡田古墳群は5世紀第4四半期から6世紀初頭にかけて築造された古墳群であり、そのなかで井出二子山古墳は最初に築造された首長墓と位置づけられている(若狭徹2017)。築造順は井出二子山古墳 → 保渡田八幡塚古墳 → 薬師塚古墳と推定され、主体部はいずれも東頭位を示すと考えられている。保渡田古墳群は埴輪が充実することで知られている。古墳群の南方約1kmには、同時期の首長居館と考えられる三ツ寺T遺跡が所在する。 井出二子山古墳は、東国における5世紀後葉のヤマト王権と強く結びついた首長墓の典型例とされ、二重周濠・中島・豊富な埴輪配置などにその政治的・儀礼的性格が顕著に表れている。

調査

石棺は盗掘を受けていたが、衝角付冑、挂甲小札、金銅製胡?、鉄鏃、鉄戈、装飾太刀、鉄斧、馬鐸、金環、金銅製装飾具、金銅製飾履、雲母製垂飾、碧玉製管玉、ガラス製小玉、琥珀製臼玉、鉄製農耕具ミニチュア、石製模造品(滑石製勾玉)などが破片として出土している。そのほか、円筒埴輪、形象埴輪(人物・動物・家型・盾形)、須恵器大甕、土師器小型壺、須恵器高坏などが出土している。

石棺開封伝説

明治時代に古墳に三角点を設置する際に、石棺が開封され、遺物は地元寺院に収められたが散逸したという(高崎市教育委員会(2006))。

考察

二子山古墳と称される古墳は、井出二子山古墳のほか、岩鼻二子山古墳(群馬県高崎市)、総社二子山古墳(群馬県前橋市)、前橋二子山古墳・天川二子山古墳(同前橋市)、豊城二子山古墳(群馬県伊勢崎市)、高根二子山古墳(群馬県館林市)、行田市二子山古墳(埼玉県行田市)、さらに味美二子山古墳(愛知県春日井市)、曽本二子山古墳(愛知県江南市)、大須二子山古墳(愛知県名古屋市)、宇治二子山古墳(京都府宇治市)、二子山古墳(佐賀県神埼市)など、各地に分布している。

「二子山」という名称の由来については、前方後円墳において前方部と後円部の墳丘が並立し、二つの山のように見えることに基づく呼称であると一般に考えられている。

群馬県において二子山古墳の名称をもつ古墳が比較的多くみられる理由については、平野縁辺部や河岸段丘上に古墳が築かれ、墳丘を側面から視認しやすい地形条件が、一因として関係している可能性が考えられる。ただし、この呼称は築造当時の名称ではなく、後世の地形認識や景観的印象に基づいて付された可能性も高く、今後の検討を要する。 「二子山古墳」と称される古墳は、築造時期としては5世紀後葉から6世紀初頭に集中する傾向が認められる。この時期の前方後円墳は、後円部と前方部の高低差や分節性が明瞭となり、側面からの視認において二つの独立した丘状地形として認識されやすい形態を示す。

「二子山」という呼称は築造当時の名称ではなく、近世以降の人々が古墳を景観要素として捉えるなかで付された俗称と考えられるが、その成立背景には、古墳時代後期に特徴的な墳丘形態が大きく関与している可能性が高い。

規模

外表施設

葺石

遺構

遺物


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[古墳時代]

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