歳勝土遺跡(さいかちどいせき)は神奈川県横浜市にある弥生時代の遺跡である。
早淵川の左岸に面する標高48mの平坦な丘陵上に位置する。 歳勝土遺跡は大塚遺跡の墓域であり、大塚遺跡から80mほどの距離にある。 東西約80m、南北130mの広さである。 弥生時代中期の方形周溝墓群は、西側に隣接する大棚杉山神社遺跡に対応すると考えられる。発見された遺構25基の方形周溝墓を保存し、うち5基を復元している。 環濠集落跡として知られる大塚遺跡に近接している。竪穴住居址は5棟が同時存在しており、3段階にわたって営まれたと推測されている。当初は中央広場を有する形で集落が形成され、以後、広場に住居が進出した。最終段階では火災となり、そのために集落は廃絶された。
歳勝土遺跡は1972年から1973年にかけて発掘された。大塚遺跡と同じ台地にあるが、東側にある台地にも続いている。方形周溝墓は4周に溝をめぐらせ、中央部を盛り上げている。ほとんどの遺跡で中央のマウンドが削られているが、歳勝土遺跡では残っていた。弥生時代の方形周溝墓は、縄文時代の土坑墓より大きく,古墳時代の古墳より小さい。階級社会の形成過程を裏付けるものとして貴重である。 溝の中から墓の年代を示唆する宮ノ台式土器が多数出土した。炭化米やモモの種子も出土した。 方形周溝墓は整然と並んでおり、25基中10基から宮ノ台式土器3期が出土した。方形周溝墓には長方形の土坑が2つ並んでいた。つまり2名を1つの方形周溝墓に納めている。歳勝土遺跡では副葬品は見つからず土器だけであった。周溝内にも埋葬があった。 宮ノ台式土器3期により弥生時代中期と特定できた。方形周溝墓からは人骨はでなかった。方形周溝墓は弥生時代前期に近畿地方で出現し、弥生時代中期に関東まで広がり、九州から東北地方まで広がった。
方形周溝墓への埋葬は中央部土坑に家長を埋葬し、周囲の周溝内に家族を埋葬したとみられている。家族であれば、なぜ同じマウンド内の埋めなかったのであろうか。 区分された埋葬は何らかの身分差を示しているのではないか。縄文時代には1人1土坑であり、身分差はないようである。方形周溝墓では周周溝内とマウンド内埋葬の2区分となり、古墳では大王あるいはリーダーだけとなったと考えると、身分差の段階的な秩序の変遷が墓に現れたと解釈できる。
歳勝土遺跡を公園として保存し、竪穴住居跡27基を保存し、うち7軒を復元した。集落を取り囲んだ環濠のうち250mを復元した。
コメントをする