舟塚山古墳
2023-05-21


舟塚山古墳(ふなつかやまこふん, Funatsukayama Tumulus)は茨城県石岡市にある前方後円墳である。

概要

恋瀬川の河口付近で霞ヶ浦を見下ろす台地上に位置する。舟塚山古墳群には6基の前方後円墳、20基の円墳がある。16号墳は舟塚山古墳である。規模は茨城県下では最大であり、群馬県太田市の太田天神山古墳次いで東日本で2番目の規模である。前方部、後円部共に3段築成で、外周は盾型の一重の堀が後円部の南、東、北側と前方部の北、西側を囲む。後円部に対して前方部が長くなっている。大阪府堺市の日本最大の前方後円墳である大仙陵古墳(仁徳天皇稜)や奈良県奈良市のウワナベ古墳と共通の特徴がある。しかし墳丘の形は、奈良県広陵町の巣山古墳と非常に似ていることが指摘された。巣山古墳は有力豪族である「葛城氏」の墓と考えられていることから、舟塚山古墳の被葬者は、大王よりも葛城氏との関係が深いことが伺える。

規模

外表施設

調査

1963年(昭和38年)に明治大学考古学研究室により測量調査が行われる。 1972年の調査で墳丘表面に円筒埴輪列が認められた。 2011年度から2013年度(平成23-25年度)にかけて、測量調査、地中レーダー探査・物理探査が行われ、平成30年にその成果が発表された。埋葬施設はこれまで想定されていた石棺ではなく、木棺を粘土でくるんだ粘土槨の可能性があるとされた。主体部の発掘調査は行われていない。

出土

昭和47年の発掘調査により周溝から円筒埴輪が、円墳からは木棺が発見され短甲・直刀・盾などの副葬品が出土した。墳丘上から鉄刀数百本と土師器が出土した。

遺構

遺物

築造時期

陪冢と考えられる円墳から出土した木棺,短甲,直刀,盾などの副葬品や墳形から5世紀後半の築造と推定された。平成23〜25年度の調査で築造年代はこれまで考えられていた5世紀半ば(450年頃)よりも古く、5世紀はじめ(400年頃)まで遡る可能性が指摘された。

被葬者

当時この様な巨大前方後円墳を造る事のできる首長は限られており、下毛野国(栃木県)に勢力を持っていた壬生氏(毛野氏の一族)の筑柴刀禰が該当すると言われる。筑柴刀禰は初代「筑城国造」(常陸国中部)で、須恵国造(上総国南部)、馬来田国造(上総国西部)、師長国造(相模国西部)などは筑柴刀禰と同じ氏族であった。

指定

アクセス等

「史跡 舟塚山古墳」の石碑あり。

常陸風土記の丘

参考文献

  1. 大塚初重(2019)『巨大古墳の歩き方』宝島社
  2. 川角寅吉(1944)「茨城縣に於ける古墳の分布」人類學雜誌59 巻 10 号 pp.365-384
[古墳時代]

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