河内大塚山古墳
2023-05-25


河内大塚山古墳(かわちおおつかやまこふん)は、大阪府羽曳野市・松原市に位置する5世紀後半から5世紀末の前方後円墳である。6世紀説もある。 単に「大塚山古墳」ともいう。

概要

全国第5位の規模を誇る古墳である。5世紀後半から5世紀末にかけて築造されたと考えられている。墳丘長約335メートル、後円部約185メートル、前方部の幅約230メートル、幅35~70メートルの濠を持つ。百舌鳥古墳群と古市古墳群の中間地点に位置する。

陵墓参考地

1928年(昭和3年)まで、古墳の中に、江戸時代以降、数十軒の集落が形成されていた。墳頂に菅原道真を祭神とする天満宮が祀られ、東大塚側には融通念仏宗の西誉寺と浄土真宗本願寺派の正定寺があった。1925年に陵墓参考地となり強制退去となり、1932年に陵内立入禁止となった。管理は宮内庁が行っている。宮内庁は「大塚陵墓参考地」(被葬候補者:第21代雄略天皇)として陵墓参考地に治定したが、実際の被葬者は不明である。

調査

日本考古学協会など16の学会16人は2010年2月18日午後、大塚陵墓参考地に指定される全国で5番目の規模を誇る巨大前方後円墳・河内大塚古墳の立ち入り調査を行った。前方部は後円部のような盛り土がほとんどなく、平坦であることが分かった。通常の古墳の前方部は山のように盛り上がっていることから、古墳が未完成で被葬者が納められていない可能性が浮上している。また、墳丘内に埴輪や葺石が存在しないことが確認された。

堺市文化財課の十河良和氏説

2013年7月13日、読売新聞朝刊に堺市文化財課の十河良和氏の説が紹介され、氏は河内大塚山古墳は未完成の古墳であると主張した。河内大塚古墳は周濠の深さは極めて浅く堆積土も少ない。前方部の削平にともなう周濠への盛り土の移動がないことから、前方部が異常に低いのは本来の形状であり(Z350)、前方部の盛り土が行われていなかったと結論付けている。そして、安閑天皇が河内大塚古墳を寿陵として築造していたが、皇位継承問題で殺害され、未完の河内大塚古墳には埋葬は叶わず、『書紀』記載の「安閑天皇・春日山田皇女、河内古市高屋陵合葬」の如く、皇后陵への緊急的な埋葬が行われたものと推測している。十河氏は河内大塚古墳が未完成で埴輪が無いことについて、その証拠を河内大塚古墳の南南西5.5kmにある埴輪窯・日置荘西町遺跡に求めた。日置荘西町遺跡から埴輪窯7基と須恵器窯5基が確認されており、埴輪窯の稼動時期は古墳後期(6世紀代)である。埴輪窯の稼動が始まったTK10・MT85頃の円筒埴輪は窯焼成・外面タテハケで埴輪Ⅴ式であるにもかかわらず、4世紀代(野焼きの埴輪Ⅱ・Ⅲ式)に造られた器高が1.2~1.4mの大型品で、段によってスカシ穴が2個以上、鰭付きのものがある特長があり、一般的なⅤ式の埴輪とは違った系譜で日置荘窯系と呼ばれている。 大阪市立大学の岸本直文准教授(考古学)は墳丘に大きく崩れた跡がないのに、高さ20メータの後円部に対して前方部は4.5メータと著しく低く、且つ周濠も浅く、周濠の土を前方部に盛り上げる途中に築造が中断したと考えており、未完成説を支持している。

遺構

古墳時代後期の一部に見られる「剣菱形」と呼ばれる特異な形状である。

遺物

後円部に今でも「ごぼ石」と呼ばれる横穴式石室の天井石と推測される巨石が残され(後期古墳の特徴)ている。

指定

アクセス

参考文献

  1. 大塚初重(1996)『古墳事典』東京堂出版
  2. 青木敏(2022)『古墳図鑑』日本文芸社
  3. 『未完成の安閑天皇陵』読売新聞朝刊, 2011年7月13日、朝刊記事

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[古墳時代]

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