今城塚古墳(いましろづかこふん, Konda Gobyoyama Tumulus)は淀川流域に所在する古墳時代後期の大形前方後円墳である。
富田台地は高槻市内で唯一の台地であり、東西3km南北3kmの台地となっている。中央部に位置し、西向きの前方後円墳である。同時代において淀川流域で最大級の規模である。墳丘の周囲に二重の濠と堤が廻り、葺石や埴輪を備える。築造年代は6世紀前半とされており、継体大王の亡くなった531年した時期と整合する。 人力で濠を彫り、土を積み上げて墳丘をつくり、遠くから運んだ葺石で表面をおおい、埴輪を並べた「造り山」で、後円部墳丘の中心部には埋葬施設が設けられている。 北川内堤から見つかった埴輪祭祀区は、大王陵での埴輪祭祀の様子をしのばせる。前方部の環濠の一部に水が張られており、現在は釣りは禁止されているが、公園化する前は釣り場として市民に利用されていた。
『大阪府の史蹟と名勝』(参考文献1)には「前方後円墳にして西西北面する。左右の幅約八十間、後円封土の高さ約四十尺に及ぶ。周囲に濠あり。その幅約三十間。濠を巡り幅十数間の中堤あり。更にその外側に幅二十間位の濠あり。すなわち二重の制なり。後円部の頂上と思われるところ少し掘り下げたる痕跡あり。全山すべて松山にして、濠の大部分は埋め立てて田となれり。陪塚数個あり。西方氷室塚の外はすべて破壊され、その原型を失へり。西北の前塚より凝灰岩よりなれる小石棺が出た」と書かれる。1596年の伏見地震による地滑りで、墳丘の盛土の多くが内濠へ滑落したことが判明した。
盗掘などの被害により、副葬品や埋葬施設については不明である。3基分の石棺を構成していた石材および金銅製装身具などが発見されている。古墳史上の特徴は、北側(平面図左側)内提張り出し部付近から巨大埴輪祭祀場が検出され、5区に区分けされた65m×6m範囲から多数の埴輪出土があった。家形15、柵形25、蓋形4、太刀型14、盾形1、靱形1、人物18(武人・鷹匠・力士・冠帽男子・坐像男子・巫女)、動物形18(馬形他)、鶏形4、水鳥形13の各埴輪の出土である。 高さ約1.7mの家形埴輪は日本最大である。川本重雄は柵列と門によって四つの区画に分けられていると指摘し、埴輪は継体の皇位継承に至る歴史とその宮殿を表現していると解釈した(参考文献3)。第一区で継体の皇位の正当性を証明し、第二区は豪族時代の館、第三区と四区は大王になってからの館という歴史を埴輪で表現したとする。
数基の陪塚が配される。
築造された時期は5世紀初頭とみられる。
『延喜式』諸陵寮(参考文献2)によると、継体大王稜は摂津国の三嶋野にあるとされている。宮内庁は(太田茶臼山古墳)を継体稜と治定している。 古墳の被葬者は、埴輪等の出土物の年代的特徴や文献資料の検討などから、第26代継体天皇の墳墓とするのが学界の定説となる。継体大王は后の手白香皇后を通じて大和の王統につながるとされ、入り婿の形で王統の継続性を主張した。そのため継体天皇陵は、その前の応神王朝の墳墓の地である古市(大阪府羽曳野市)・百舌鳥(同堺市)の両古墳群を離れた継体天皇の有縁の地、三嶋野に営まれたと考えられている。
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