小野毛人墓
2023-06-04


小野毛人墓(おののえみしのはか)は京都市左京区上高野で出土した飛鳥時代、天武期の官人である小野毛人の墓誌である。小野毛人は小野妹子の子である。

概要

南方に松ヶ崎、修学院のから山城盆地を望み、東には比叡山を仰ぐ丘陵頂部にある。 史書では小野毛人の業績は不明であるが、1613年(慶長18年)に現在の京都市左京区上高野で出土した小野毛人の墓誌により経歴が判明した。 封土は低平で径3.6mの規模内部主体は半地下式の竪穴式石室である。花崗岩を用いた切り石の板石である。3枚の敷石を置き、各壁は1石、天井は2石からなる。 石室内に墓誌以外はなかったとされる。本拠地の墓地で一族とともに葬られていたことが分かる。 現在は、同地に内藤湖南が碑文を撰した墓碑(大正4年建立)がある。

不審な点

墓誌銘には大錦上と書かれるが、子息の小野毛野薨伝(『続日本紀』和銅七年四月十九日)では毛人の冠位は小錦中とされている。狩野は続日本紀の記載を誤りとする。 次に、朝臣と書かれるが、日本書紀では小野臣が朝臣を賜るのは天武十三年(684年)一月一日とされている。小野毛人の死後である。 また飛鳥浄御原宮は天武七年の時点では存在しない。天武十五年(886n年)である。よって吉永(1972)は墓誌銘の成立は天武十五年以降とする。

墓誌

墓誌は鋳銅製で、文字を刻んだ後に鍍金する。長さ60cn、幅6cm。文字は両面にあり、表に小野毛人が天武朝に仕え、納言の職にあって後の刑部卿で大錦上(正四位に相当する地位)にあったと記す。 677年12月上旬に造営し、埋葬したとされる。

原文解読

金銅小野毛人墓誌は崇道神社の所有であるが、京都国立博物館に寄託され、保管する。長さ58.9cm・幅5.9cmの短冊形の銅板で、表に1行・26字、裏に1行・8字と少し下げて埋葬した年月を記す。合わせて48字の銘文が陰刻される。

解釈

天武天皇の時代に「天皇号」があったことを示す史料である。

指定

参考文献

  1. 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋(1994)『日本書紀』岩波書店
  2. 青木和夫, 笹山晴生, 稲岡耕二,白藤礼幸(1992)『続日本紀』岩波書店
  3. 金銅小野毛人墓誌」京都国立博物館-1525
  4. 大塚初重(1996)『古墳辞典』東京堂
  5. 吉永登(1972)『飛鳥時代の金石文』関西大学東西学術研究所紀要5,pp. 1-11
[古代史史料]

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