聖武天皇(しょうむてんのう、701年-756年,Emperor Shomu)は奈良時代(在位724年~749年)の第45代天皇である。
701年(大宝1年)、奈良で生まれる。父は文武天皇、母は藤原不比等の娘の藤原宮子。諱は首(おびと)王子。7歳で父と死別する。父方の祖母である元明天皇が即位する。714年(和銅7年)、14歳で皇太子となる。716年(霊亀2年)、光明子は皇太子・首王子の妃となる。後宮には藤原不比等の女の安宿媛(光明皇后)、県犬養広刀自、藤原武智麻呂の女(名前不明)、同じく房前の女など4夫人が知られている。 719年、皇太子は始めて朝政を聴く。724年(神亀1年)2月首王子は24歳で即位する。長屋王が左大臣となる。3月、吉野に行幸する。8月、献新羅使を任命する。11月、大嘗祭。 727年7月、光明子が皇子を産む。11月。皇子を皇太子とする。728年9月、皇太子没。 729年2月10日、藤原不比等の4兄弟は陰謀によって長屋王を殺害し(長屋王の変)、729年8月に光明の立后を強行した。県犬養広刀自を夫人とし、728年皇子に安積親王が生まれる。井上内親王・不破内親王を得た。光明子との間に皇子として基王、内親王として阿倍皇女を得た。基王は皇太子になったが早世し、安積親王も744年(天平16年)に没したため、皇位継承に問題が残った。737年(天平9年)に天然痘の大流行により、藤原四兄弟を始め、政府高官の大多数が死去する。天皇の母の藤原宮子は長く病に伏していたが、唐より帰国した僧玄昉が看病してこれを回復させ,天皇は初めて母に対面することができた。それ以来,天皇は玄昉や吉備真備を重用するようになる。
玄昉が重んじられることへの不満をきっかけとして740年(天平12年)9月,藤原広嗣は九州において大規模な反乱をおこした(藤原広嗣の乱)。反乱を機に恭仁京(京都府)、紫香楽宮(滋賀県)、難波京(大阪市)と3度にわたる遷都を繰り返し、膨大な費用を要して国家財政は苦境に陥る。最終的に都は平城宮に戻ったが、政治的混乱の時期であった。740年(天平12年)12月からわずか 4年半の間である。 741年(天平13年)には国分寺建立の詔を発し、諸国に国分寺、国分尼寺を建てた。743年には盧遮那大仏の造立を発願した。
結果的に民衆の全負担が増大し、墾田永年私財法の制定とともに律令体制の崩壊を促進した。749年4月陸奥国産金の報を受けて東大寺へ行幸し、大仏に自らを三宝の奴であると述べて、749年(天平勝宝元年)7月2日(西暦の8月19日)、娘の阿倍内親王に譲位し(孝謙天皇、出家した。752年(;天平勝宝4年)4月9日(752年5月30日)、東大寺の大仏の開眼法要を行った。754年(天平勝宝6年)唐僧・鑑真から菩薩戒を受けた。756年(;天平勝宝8年)に天武天皇の2世王・道祖王を皇太子にする違勅を残し崩御した。御陵は奈良市法蓮町の佐保山南陵(奈良市法蓮町)。
遺品は正倉院御物として伝わる。仏教芸術は高度の技術と鑑賞眼による華麗な工芸品を中心とする、いわゆる天平文化とよばれるもので、聖武の遺品は光明皇后によって東大寺に献納され、正倉院宝物の母体となる。この時代の仏教芸術は高度の技術と高い鑑賞眼による華麗な工芸品を中心として、いわゆる天平文化を作り上げた。聖武天皇の唯一の書跡は正倉院に「雑集」が伝えられる。これは東大寺献物帳のうち国家珍宝帳に「雑集一巻(注略)右平城宮御宇 後太上天皇御書」とあるもので、巻末に天平3年(731)9月8日写了とある。天皇31歳の書である。
先行研究では大宰府での藤原広嗣の乱の平城京への波及を恐れたこと、先代の天皇である元正上皇からの独立を求めたこと、737年(天平9年)に流行した天然痘,またその原因とみなされた長屋王の怨霊を忌避したいとの願望,などが指摘されている。737年の疫病流行で不比等の4子が没してから貴族間の抗争が激しくなったことも理由に挙げられている。
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