法興年号(ほうこうねんごう)は、一般に私年号とされるが、飛鳥時代に使われた年号である。
法興は私年号とされるが、法興元年は崇峻4年(591年)である。大矢透の説では、591年を仏法が興る元年においたとする。癸未年は623年であるから、法興元年は591年となる。 また、『釈日本紀』所収の「伊予国風土記逸文」に、「法興六年」(596年)と記載される。 法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘には法興31年が使われる。これは621年である。
591年は崇峻が暗殺される前年である。 592年10月4日に、猪を献上する者があり、崇峻は笄刀を抜いてその猪の目を刺し、「いつかこの猪の首を斬るように、自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」と発言した。そのことを聞きつけた蘇我馬子が「天皇は自分を嫌っている」と警戒し、部下に暗殺命令を下した。崇峻が暗殺されたあと、聖徳太子が天皇として即位した可能性が考えられる。1年の違いをどう考えるかが、問題である。仮説としては1年前の591年に崇峻が暗殺され、聖徳太子が即位し、法興の年号を使い始めたとすると、それらの辻褄があう。この仮説では推古の即位はあったのかという疑問が残る。 隋の使節が倭国に到来し男王にあったのが608年(大業4年)であるから、これともつじつまがあう。『元興寺伽藍縁起』所引の丈六光銘に、大隋国使主鴻臚寺掌客裴世清と使副尚書祠部主事遍光高らの来朝の記事を伝える。つまり使者の裴世清があったのは、倭王の聖徳太子であったとするとすべて辻褄があう。女性の推古大王では、記録と矛盾する。中国の皇帝は男性が原則であるから、女性であったら正確に報告し、隋書に記載されるであろう。 すなわち聖徳太子の存命中は法興年号が使われたと考えると、金石文、中国史料と合理的に矛盾なく説明できる。31年続いた王朝が使用する年号が私年号とは言いにくいのではなかろうか。
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