下本山岩陰遺跡(しももとやまいわかげいせき)は縄文時代から弥生時代の遺跡である。
下本山岩陰遺跡は、相浦川河口近くの標高16mの砂岩露頭に位置し、縄文文化を特徴づける洞穴遺跡の中で、縄文時代前期において拠点的に利用された洞穴遺跡のひとつであり、拠点的遺跡であった。
1970年に発掘調査が行われ、縄文時代前期、弥生時代の遺物が出土した。相浦川河口近くの標高16mの砂岩露頭である。縄文前期では猪、鹿等の哺乳類、鳥類、大量の貝殻や魚の骨、川蟹の殻さらには釣針等の漁労具が出土した。
海部陽介,坂上和弘,河野礼子(2017)によれば、縄文時代前期に属する比較的保存のよい2体の人骨(4号と6号)と,弥生時代に属する合葬された男女2体(2号と3号),その他の人骨が確認された。縄文時代前期人骨のうち少なくともほぼ完全な1体には縄文時代人的な形態特徴が色濃く出ている。弥生時代人骨は北部九州弥生時代人より縄文時代人に類似しており、縄文人に共通する低顔,凹凸のある鼻根の周辺形態,四角い眼窩などの特徴がみられた。
本山岩陰遺跡出土の弥生時代人骨2体(下本山2号と3号)のミトコンドリアDNAハプログループと全塩基配列を決定することができた。西北九州型弥生人と呼ばれる形態学的には縄文人の系統を引くとされていた人骨が、縄文人に多いハプログループM7aと渡来系弥生人に多いD4aを特定できた。西北九州型弥生人の中に、本州の縄文人と同じミトコンドリアDNA の系統が存在することが明らかになった。西北九州における弥生人集団の棲み分けは明確ではなく、双方の婚姻関係を伴ったものである可能性がある。玄界灘に面した佐賀県や長崎県の沿岸地域や五島列島などの離島では,従来の縄文系の形質を受け継いだ西北九州型弥生人が生活していた。今回検出されたM7a とN9b は縄文時代から存在することが明らかとなっている。M7a は縄文時代から列島全体に分布していたと推察することが可能となった。
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