朝貢
2024-10-14


''朝貢'(ちょうこう)は古代の東アジアにおいて、中国皇帝に対して周辺諸国の首長が貢物を献上し、皇帝はその恩恵として下賜(返礼品)を与えて帰国させることである。

概要

孫薇(2003)は、「朝貢とは定期的に皇帝に貢品を捧げ、天子に謁見するために朝廷にあがることである」と定義した。そこで「貢」は天子に捧げる地元の産品(方物)であり、「朝」は諸侯が臣として禮を尽くし、朝廷に集めることである。 三国時代や唐において、朝貢が行われ、宋・元・明・清でも継続した。朝貢は周辺諸国の首長の使節が相手国への物品の贈与を通じてお互いの関係を確認しあうことであり、外交儀礼・政治的行為であり、本来は経済取引ではない。 直轄支配する土地では内臣であり、朝貢国は外臣である。

方物

貢品は方物という。『魏志倭人伝』に「方物」と書かれる。1373年、朝鮮国王が馬を五十匹、貢物として使者を派遣した。しかし途中で二匹の馬が死んだため、使者は普通の馬を購入して補充した。皇帝は補充した馬を却下した。朝鮮でとれない馬は「私馬」としてそれを捧げることは「不誠」であるとした。すなわち地元の産品でなければ、方物ではないとした。

倭国の朝貢

倭国からの最初の朝貢は57年である。倭の奴国王が光武帝に使いを送り朝貢し、「漢委奴国王」の印綬を授けられた。239年卑弥呼は魏に使者を送り、生口(奴隷)として男4名、婢6名、班布(まだら織の布)2匹2丈を献上した。いささか貧弱な貢物であったが、すべて倭国の産品であった。班布は紵麻(チョマ)と呼ばれる麻の布であったとされる。2丈(約4.7m)の布を2反贈ったと理解できる。それに対する皇帝の下賜品は豪華であった。「親魏倭王」の称号や銅鏡などを授かったとされる。 倭の五王時代には上表文を提出し、称号を求めている。これらから、当時の倭国は冊封体制に組み込まれていたと考えられる。

古琉球の朝貢使

尚巴志(しょうはし)の時代(在位:1422年 - 1439年)、進貢使(朝貢使)は総勢300人、ほぼ2年に1度の頻度で派遣されていた。献上品は、馬や硫黄、貝類、芭蕉布など沖縄の特産品をはじめ、日本の工芸品や東南アジアの珍品などであった。皇帝からは、国王への文書と高級な品物が下賜された。

参考文献

  1. 西嶋定生『秦漢帝国』講談社
  2. 西嶋定生(1962)「六-八世紀の東アジア」『岩波講座日本歴史 第2巻』岩波書店
  3. 西嶋定生(1962)『冊封体制論』
  4. 西嶋定生(2002)『西嶋定生東アジア史論集〈第3巻〉』岩波書店
  5. 山尾幸久(1989)『古代の日朝関係』塙書房
  6. 孫薇(2003)『「貢品」と「下賜品」 に見る中琉関係』
[古代史関連用語]

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