張政
2024-12-13


張政(ちょうせい)は邪馬台国に派遣された帯方郡の武官である。

概要

237年に壹與が帯方郡に使者の派遣したときの塞曹掾史である。

来倭は247年

「冊府元亀」巻九百六十八 外臣部 朝貢第一に「247年(正始八年)、倭国の女王である壹與は、大夫の掖邪狗たちを派遣して(洛陽の)尚書台に至らせ、男女の生口(奴隷)三十人を献上し、白珠を五千枚、青大句珠を二枚、異文雑錦を二十匹を朝貢した。」と記事がある。『魏志倭人伝』にも247年(正始八年)に塞曹掾史の張政等を派遣したと書かれるので、同じ時期である。

滞在中の出来事

張政が帰国したとの記事は、すぐには見られず、卑弥呼の死、その後の戦乱、壱与の即位を見届けてから帰国した。『魏志倭人伝』「(卑弥呼死後)「更に男王立つも国中服さず。更に相誅殺し、時に当たりて千余人を殺す。また、卑弥呼の宗女台与を立て、年十三で王と為し、国中遂に定まる」とかかれる。張政は卑弥呼の死を見届け、その後の戦乱の仲介をし、台与を擁立するなど、大活躍をしたのであろう。『魏志倭人伝』の記事は、記述がリアルなので、張政の帰朝報告によるものであろう。

張政の帰国は265年

『魏志倭人伝』に「壱与は倭の大夫で率善中郎将の掖邪拘等二十人を派遣して、張政等が帰るのを送らせた」と書かれるが、『魏志倭人伝』にはこれがいつのことかは書かれていない。 しかし、晋書に「265年(泰始1)年、倭人来り方物を献ず」と(泰始初遣使重譯入貢)書かれるので、これは「掖邪拘等二十人を派遣」した記事に該当するので、張政はこのときに帰国したと見られる。なお『日本書紀』神功紀六六年条に、「泰初二年、倭の女王、訳を重ねて貢献を遣わす」と書かれており、晋書と1年異なるが同じ献使を指しているとみられる。 『日本書紀』の泰初は泰始の誤りであるが、張政は247年に倭国に来て、265年に帰国したとすれば、18年間に渡り倭国にいたことになる。

参考文献

  1. 石原 道博(1985)『新訂 魏志倭人伝』岩波書店
  2. 渡邉 義浩(2012)『魏志倭人伝の謎を解く』中央公論新社
  3. 坂本太郎, 井上光貞 (1994)『日本書紀』岩波書店
[魏志倭人伝]

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