狗奴国(くなこく、くぬこく)は『魏志倭人伝』に登場する国のひとつで、3世紀に邪馬台国と戦ったとされる国である。
『魏志倭人伝』記載の「其の南」とは邪馬台国の南(に狗奴国がある)と解釈される。ただし、『魏志倭人伝』の方角はあまりあてにならない(水野祐(1982)、p.262)とされる。「狗(ク)」は水野祐(1982)によれば、南ツングース語の「大きい」という意味であるという。また「奴(ナ)」は国の意味とする(水野祐(1982)p.191)。両者合わせれば、「大国」の意味になる。 『魏志倭人伝』における狗奴国の説明は「其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王」だけと解釈するのが、多数説である。しかし水野祐(1982)は「其南有狗奴國」、から「耳・朱崖同」までを狗奴国の説明とする(水野祐(1982)p.251)。これは一つの解釈であるが、この解釈では「黥面文身」は狗奴国だけという解釈になる。しかし、狗奴国の説明のすぐ後に、「自郡至女王國、萬二千餘里」の記載がある。これは狗奴国の説明ではないから、水野祐(1982)の解釈は不自然にみえる。やはり「男子、無大小皆黥面文身」以下の記述は、倭国の説明ではなかろうか。
『魏志倭人伝』では「その南に狗奴国あり」(其南有狗奴國、男子爲王。其官有狗古智卑狗、不屬女王。)と書くが、『後漢書』では「女王国より東、海を渡ること千余里、狗奴国に至る」(自女王國東度海千餘里至拘奴國,雖皆倭種,而不屬女王。)と書く。ここで、2点が注目される。1点目は方角である。『後漢書』は邪馬台国の東とするが、『魏志倭人伝』では邪馬台国の南とするので、方角が異なる。2点目は『後漢書』は邪馬台国と狗奴国の間に海があるとするが、『魏志倭人伝』には海の存在は書かれていない。 安藤正直(1927)は『後漢書』楽浪郡吏の報告をもとにし、『魏志倭人伝』は帯方郡吏の報告がもとにしていると指摘する。もとの報告『後漢書』では『魏志倭人伝』の記載の誤りを訂正したとみることができる。水野祐(1982)は邪馬台国と狗奴国は地続きとするが、そうすると『後漢書』の記載と反している。 海が間にあるとすれば邪馬台国九州説に不利な点になり得る。近畿説を取るなら、間の海は伊勢湾を指すと解釈できるし、九州説をとるなら、狗奴国は四国にあり、間の海は瀬戸内海と解釈できる。いずれも想定している邪馬台国の東にある。
これまで狗奴国の比定は様々に言われてきた。諸説を検討する。
狗奴国は、熊本県など九州南部に比定するとした説は、江戸時代の新井白石以後、白鳥庫吉、内藤湖南、井上光貞、小林行雄などが唱えている。白鳥庫吉は狗奴国を、「熊襲の国」とし、喜田貞吉は「球磨」とする。最近では山鹿市方保田東原遺跡や高森町・南阿蘇村の幅・都留遺跡のベンガラ生産遺跡の発掘成果が見られる。しかしその比定根拠は薄く、『魏志倭人伝』の記述に関連するとみられる地名の「くま」と「くくち」の両方が見られるのは「肥後の国(熊本県)」とする。地名の読みが同じだからというのはいかにも根拠が薄い。地続きでないとすれば、九州南部では地続きなので都合が悪い。王墓、王都に有力候補がないことも問題である。邪馬台国九州説の難点は考古学の成果を見ずに、もっぱら『魏志倭人伝』の解釈だけに依拠していることである。
本居宣長の四国伊予国河野郷説である。現在の松山市北条付近である。間に海はあるのは好条件であるが、難波奥谷古墳は円墳で古墳時代の後期の築造であるし、善応寺古墳は7世紀頃である。3世紀の有力な遺跡も見当たらない。
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