親魏倭王(しんぎわおう)は3世紀の倭国王である卑弥呼が中国の魏から得た称号である。
239年(景初3年)6月、倭国王の卑弥呼は帯方郡を通じて、魏に使者を派遣した。 同年12月、魏の皇帝は卑弥呼に「親魏倭王」の称号を与え、金印紫綬を仮授した。 「親魏」とは、魏に友好的なという意味である。 魏の時代に「親魏○王」の称号が与えられたのは、他には「親大月氏王」のみである。 当時において、存在した高句麗、弁韓、馬韓、辰韓には与えられていない。 「親魏○王」は国内には与えられず、中国の外部(外夷)の王に対して与えるものであった。 中国王朝の世界観は中華思想であり、それは中華と夷狄を分別する考え方である。中華では礼が行われ、夷狄は礼を知らない。しかし、夷狄が来朝することは、中国皇帝の徳を証明するものと考えられていた。遠方の夷狄であるほど、中国皇帝の徳が高いことを証明する。 邪馬台国は1万二千余里の遠方にあるから、中華思想においては最も遠方の夷狄となる。
『三国志』(魏書三/明帝紀第三)の三年十二月記事に「月氏王波調遣使奉獻、以調爲親魏大月氏王」と書かれる。大月氏の都は変遷が何度かあるが、現在のウズベキスタン スルハンダリヤ州が最終的な場所である。 『魏書』(北魏書)列伝第九十に「大月氏国、都盧監氏城在弗敵沙西,去代一萬四千五百里。」と書かれる。つまり、北魏の首都の「代」から1万4000里の距離にあり、都は盧監氏城にあると書かれる。1万二千余里の邪馬台国と同様に遠方にあると認識されていた。
しかし北魏の時代と魏の時代とでは、大月氏は同じ場所ではなかった可能性がある。中国の洛陽からの距離は邪馬台国より遙かに遠い。そこが1万4000里なのであるから、邪馬台国の1万二千余里が実際の距離ではなかったことが裏付けられる。
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