西ヶ原貝塚(にしがはらかいづか)は東京都北区にある縄文時代の貝塚である。
貝層東側の貝層は住居跡内等に形成された後期の中・小規模の貝層のみで、大規模な面貝層が形成された西側とは対照的な様相を呈している。弥生時代の遺構はすべて後期で、周溝墓群を挟むように同期の住居跡が分布する。現在の飛鳥中学校付近に西ヶ原貝塚があったという説明板が立っている。貝塚は昌林寺、北区立飛鳥中学校校庭、東側一帯に広がる。
1951年の酒詰仲男の表面調査により馬蹄形分布の大規模な遺跡であることが判明した。 その後の2007年、2008年、北区教育委員会の調査で遺物は縄文時代早期から晩期、住居は中期・後期・晩期、墓は後期のものを発見した。遺構は住居、貯蔵穴、貝塚、墓がみつかっている。住居は34軒以上がみつかったが、同時に存在したのは数軒程度とみられる。 貝塚は中期から晩期に形成され、範囲は140m×180mであることが判明している。 出土した骨角器は鹿の骨から取ったもので3800年前から3400年前の遺物である。サイズは長さ11.5cm、幅5.5cmとなる。墓壙に埋葬された保存状態の非常に良好な成人人骨3体、土器に埋葬された胎児骨1体が出土した。
2007年の発掘調査で、縄文時代後期初頭の称名寺式の土器に収められた胎児骨を発見した。米田教授によれば、胎児骨の放射性炭素年代をそのまま較正すると4568〜4440年前となる。土器編年では、骨が納められていた称名寺式よりもひとつ古い、縄文時代中期加曾利E4式期(4520〜4420年前)に相当する年代である。しかし骨のタンパク質で炭素と窒素の安定同位体比(δ13Cとδ15N)を測定したところ。胎児骨では母親が摂取した魚貝類を通じて海洋リザーバの炭素が約34%含まれていると推定された。3割が海洋由来の炭素なので、胎児骨の年代は海産物のせいで150年ほど古くなった。再計算すると、4412〜4296年前という年代になり、称名寺式土器の年代と一致する。 海辺の遺物や遺骨を年代測定するときは海洋リザーバ効果に注意する必要がある。
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