環濠集落(かんごうしゅうらく)は集落の周囲を柵で囲み、壕を巡らせた集落である。
弥生時代になると集落の周囲に深い濠を巡らす「環濠集落」が作られるようになった。深さ2m前後、幅2~4m程度のV字型の溝が周囲に巡らされている。一部の集落では二重、三重に溝が掘られていることもある。
奈良県では濠の幅は約6~8mが標準である。かなり幅のある環濠である。内部に20~30戸の家屋が建ち並び、中心に寺や神社を有している。しかし田原本町の「法貴寺遺跡」では集落の一辺は約50m、濠の幅は2~3mと小規模で、これらが3~4区画が集まる。奈良県の環濠集落は特殊な集落形態とされ、山の辺の道の竹内環濠集落や萱生環濠集落、大和郡山市の稗田環濠集落などがあるとされる(藤原哲(2011))。 唐古鍵遺跡は弥生時代の環濠集落跡遺跡として知られる。多条環濠を有し、大型建物や高床・竪穴住居、木器貯蔵穴、井戸、区画溝などの遺構で構成される。大環濠(内濠)は直径400メートルの範囲で外濠を含めた全体で約42万平方メートルの面積となる。弥生時代前期後半~中期初頭(板付Ⅱ~城ノ越)には、環濠集落は爆発的に増加するとされ、その分布も九州から中国、四国、近畿、東海まで拡大するとされている。 「環壕」のルーツは長江中流域と南モンゴル(興隆窪文化)と考えられている。農耕が始まった8000年前の中国で環濠集落がみつかっている。農耕の開始と環濠集落は関係があるかもしれない。
人々の生活が安定したが、収穫物や耕作地の水利を巡って集落同志が争うようになり、争いから集落を守るため環濠が作られたとする説である。環濠集落は弥生時代の標準的な集落と考えられた時期があったが、藤原哲(2011)は300遺跡を検討し、弥生時代の標準的な集落ではなく、むしろ希少な集落と結論付けた。石野博信(1973)は低地の環濠の防御性について言及し]、佐原真(1979)は環濠集落を「濠や土塁をめぐらす防御的なムラ」[佐原1979]として説明した。
用水・排水的機能を重視するもの(前田(1996))。濠の目的は灌漑用水を溜めることであり、防御機能は時代の流れに対応して付加されたとみる説もある。集落内と外部の明確な区分け、雨水の排水などの役割も主張される。
環濠集落は害獣からの防御も目的の一つであったと考えられている。特に、平地との高さの差が数十メートル以上ある高い場所や斜面に造られた環濠集落は、害獣からの防御にも役立ったと考えられている。
環状集落は縄文時代早期(1万1500年前 - 7000年前)末から前期(7000年前 - 5500年前)初頭頃成立し、中期(5500年前 - 4400年前)・後期(4400年前 - 3200年前)にかけて、主に東日本を中心に発達した集落形態である。 濠を形成せず、中心に広場を造り、その周りに環状に集落を作った。
吉野ヶ里集落の、東の正門は外壕を埋め立てて土橋を造り、その内側に大きな門を備えていたようである。外壕に7カ所、南北内郭に3ヶ所の入口が確認されている。入口には兵士が厳重な警備をしていたと思われる。外壕で囲まれた範囲は南北1km以上、東西は最大で0.5km以上、面積は約40haである。外壕断面の形態は南西部低地で逆台形となっている以外はV字形である。発掘時の規模は幅2.5~3.0m、深さ2mが一般的で、最大の部分は幅6.5m、深さ3mである。
環濠集落が古墳時代になると全国的に姿を消す理由は、単一の要因ではなく、いくつかの社会的・政治的な変化が複合的に関係していルとみられる。
古墳時代には、地方豪族を統合する「ヤマト政権(大王中心の中央政権)が台頭した。 各地の争いが次第に抑制され、集落レベルでの防御(環濠)が不要になったため、環濠は不要となった。
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