倭国乱前後の社会変化(わこくらんぜんごのしゃかいへんか)は弥生時代における倭国の内戦についての戦前と戦後の社会変化である。
弥生時代の「倭国乱」については2024年7月12日に記事を投稿したが、その後の資料入手と考察により、あたらめて論点を検討し、戦前と戦後の比較と倭国乱の意義を問い直す。
『魏志倭人伝』は倭国乱について「その国もと男子が王であったが、その70年から80年後に倭国は乱れて、暦年に渡り互いに攻伐した」と書く。これが倭国乱である。『魏志倭人伝』は倭国乱の発生時期を具体的に書いていないが、男王とは107年(安帝永初元年)に献使した倭国王帥升だったとすると(後漢書)、その70年から80年後は西暦177年から187年頃となる。この時代は北九州における伊都国の全盛時代なので、吉田晶(2020)は倭国王帥升は伊都国王であったとする(p.144)。『後漢書』では倭国乱の時期を「桓霊の間」とする。これは後漢の桓帝の在位時期146年から167年、および霊帝の168年から189年の間である。すると『魏志倭人伝』の記載と重なる時期となる。『隋書』倭国伝も同様である。 しかし、『梁書』倭国伝では、「漢の霊帝の光和中、倭国乱れ、相攻伐すること暦年」と年代範囲をより絞り込んでいる。『太平御覧』の引く『魏志』でも、「漢の霊帝の光和中」と同じである。「光和」とは後漢の霊帝の治世178年から184年である。『魏志』にも光和と書かれるので、信憑性はあると考える。
現実には倭国乱の前から地域間の戦闘は起きていた。狩猟採取時代から農耕社会になると、人々は集団で争うようになることは世界的な現象である。農耕は広い土地を必要とすること、また蓄積された余剰生産物をめぐる戦いが頻発する。戦乱の激化は武器の増加、環濠集落の発生と拡大、戦死人骨の出土、農産物を格納する倉庫、物見櫓などの考古学資料から証明される。吉田晶(2020)は「弥生時代は軍事的緊張と戦闘の時代であった」(p.129)と述べ、『後漢書』を念頭に107年頃に「倭人社会全体を政治的に統合する王」が出現したとする(p.138)。2世紀初頭の倭国の本拠地は北九州地域であった。吉田晶(2020)は「畿内勢力は鉄需要の物流センターの役割」を持ち、同盟関係にあった吉備とともに、北部九州に軍事的圧力をかけ、支配下に置く動きを見せた」とする。そこからクニ同士の覇権争いが起き、倭国乱が発生した。つまり、弥生社会の限界を解消するために必然的に倭国乱が起きたのである。武器・防具の出土は武力が存在し、戦闘技術が発達したことを示す。乱葬墓は戦闘によるまとまった死亡があったことを示す。また『漢書』『魏志倭人伝』に書かれる「生口」は奴隷であり、戦闘ないしは戦争で負けた側の家族などを奴隷つまり「生口として私有民としたものである。環濠集落は弥生時代中期に発生しているから、その頃に集団的な戦闘があったと推定できる。埋葬墓に見られる武器の副葬は武力を象徴化し神聖化したものである。これは戦士階層の社会的ステータスが上がったことを示す。
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