渡来人(とらいじん)は古墳時代から飛鳥時代にかけての古代に中国や朝鮮半島から倭国(日本)に移り住んだ人々を言う。
時期的には4世紀末から7世紀後半からの移住者を渡来人と呼ぶ。かっては「帰化人」と呼んでいたが、帰化は、国家の存在を前提とした概念であり、国家のない時代に到来した人々を帰化人というカテゴリーに含めることは適切ではない。上田正昭が「渡来人」の呼称を提唱し、学界の主流となった。
渡来人は時期から3種類にわけて考えられている。
5世紀前半頃の渡来人を「古い渡来人」と呼んでいる。しかし、5世紀以前に渡来人が無かったわけではない。日本書紀巻第十四、雄略二年冬「天下誹謗言「太惡天皇也。」唯所愛寵、史部身狹村主・檜隈民使博コ等」に登場する史部や村主は渡来人の氏族である。日本書紀巻巻第十、應~廿年秋九月「倭漢直〓阿知使主・其子都加使主、並率己之黨類十七縣而來歸焉」(漢直の先祖の阿知使主とその子の都加使主は郎党を率いて来日し、大和国高市郡檜隈クの土地を与えられた)と書かれる。東漢氏は古い渡来人の代表的な存在である。東漢氏は土木技術を伝え、灌漑用溜池などを作り、水田稲作を普及させ、見瀬、軽、檜隈を開発した。
5世紀後半以降に百済から新たに渡来した人々は新しい渡来人である、「今来才伎」「今来漢人」と呼ぶ。百済人でも漢人と呼んでいた。日本書紀巻第十四、雄略七年八月「天皇詔大伴大連室屋、命東漢直掬、以新漢陶部高貴・鞍部堅貴・畫部因斯羅我・錦部定安那錦・譯語卯安那等、遷居于上桃原・下桃原・眞~原三所」(東漢直掬、以新漢陶部高貴・鞍部堅貴・畫部因斯羅我・錦部定安那錦・譯語卯安那らが渡来し、彼らを上桃原・下桃原・眞~原の3個所に置き、東漢直掬に管理させた)。新しい渡来人を東漢の指揮下に置き、陶部、鞍部、画部、錦部、金作、甲作、鞍作、弓削、矢作などに従事させた。
百済の滅亡後、亡命百済人が多数渡来した。日本書紀第廿七天智二年九月「辛酉發途於牟弖、癸亥至弖禮。甲戌、日本船師及佐平余自信・達率木素貴子・谷那晉首・憶禮wッ、並國民等至於弖禮城。明日、發船始向日本」。来日したのは余自信、沙宅紹明、鬼室集斯、許卒母、谷那晋首、木曽貴子、憶礼福留、答火本(1字)春初、憶仁、徳自珍、鬼室集信、吉大尚、僧法蔵、角福牟、僧行信、僧道蔵、沙宅万首などがいる。当時の百済の知識人や技術者が含まれており、奈良時代の日本の知識レベルを大きく引き上げることになった。
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