本郷埴輪窯跡(ほうごうはにわかまあと)は群馬県藤岡市に所在する古墳時代の埴輪窯跡である。
群馬県は、古墳時代における埴輪生産の一大拠点として知られており、なかでも太田地域と藤岡地域の2地域が主要な生産地であった。藤岡地域では、神流川流域に位置する本郷埴輪窯跡と、鮎川流域の猿田埴輪窯跡の2地点が確認されている。
本郷埴輪窯跡は1906年(明治39年)に考古学者(東京帝国大学教授)の柴田常恵によって発見された。その後の発掘調査により、本遺跡は5世紀後半から6世紀末にかけて操業していたことが明らかとなっている。窯は登り窯形式で、前部(燃焼部)と後部(焼成室)からなる二室構造をもち、焼成室は約30度の傾斜をもつ筒状の構造である。これまでに30基以上の窯が検出されており、一つの古墳の専属窯にとどまらず、広域的な埴輪供給を担った大規模生産拠点であったと考えられている。本郷埴輪窯跡は、古墳時代における埴輪窯の構造や生産体制を具体的に示す重要な遺構である。現在は遺存状態の良かった1基が覆屋で覆われて保存されており、ガラス越しに見学が可能である。
群馬県内で埴輪を伴う古墳として最も早い例は、太田市の朝子塚古墳とされる。群馬県における埴輪の出現が近畿地方よりやや遅れた背景には、埴輪製作を担った土師部(はじべ)の成立や定着が相対的に遅れたことが一因と考えられている。土師部は、祭祀を担う場を中心として集住し、埴輪や土器の製作に従事した集団であった。
本郷埴輪窯跡の南約100メートルには、埴輪起源神話の主人公である野見宿禰を祭神とする土師神社が鎮座しており、後世において本地域が埴輪生産と結び付けて認識されてきたことをうかがわせる。また、藤岡地域の土を用いて製作された埴輪は、綿貫観音山古墳や洞山古墳群(伊勢崎市赤堀地区)などでも確認されている。本郷埴輪窯跡が東国における埴輪文化の展開に重要な役割を果たしていたことが示されている。
1943年(昭和18年)、1944年(昭和19年)に群馬大学教授・尾崎喜左雄による発掘調査が行われ、2基の窯址が発掘調査された。窯跡では埴輪の馬、埴輪武器破片など各種の形象埴輪片が散乱していた。
本郷埴輪窯跡から綿貫観音山古墳へ直接埴輪が供給されたと断定することはできないが、両者の道路距離は約9kmに及ぶ。また、洞山古墳群(伊勢崎市赤堀地区)に含まれる洞山古墳と本郷埴輪窯跡との距離は約20kmに達する。これらの事例は、埴輪が必ずしも古墳の近傍で製作されたとは限らず、一定の距離を隔てた生産拠点から供給されていた可能性を示している。
埴輪は中空で破損しやすい製品であることから、多数の埴輪を遠隔地へ運搬するには相当の労力と周到な計画が必要であったと考えられる。そのため、埴輪の搬送には道路や河川などの交通路が利用され、また製作・運搬・設置に関しては、首長層の統率のもとで組織的な労働動員が行われていた可能性が高い。こうした点から、本郷埴輪窯跡の存在は、古墳時代における埴輪生産が単なる地域的営みにとどまらず、広域的な政治的・社会的ネットワークのもとで展開していたことを示す一例として位置付けることができる。
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