蘇我満智(そがの まち)は古墳時代に朝廷で活動した蘇我氏の有力人物である。
『古語拾遺』、『尊卑分脈』では「蘇我麻智」と表記され、表記には揺れがみられる。 一方、『日本書紀』は蘇我氏の出自や初期系譜について明確な説明を与えておらず、満智の具体的な家系は後世史料に依存して復元されている。
『公卿補任』には、 満智―韓子―高麗―稲目 という系譜が掲げられている。これに対し、『尊卑分脈』は、 彦太忍信命(孝元天皇皇子)―屋主忍男武雄心命―武内宿禰―石川宿禰―蘇我麻智宿禰 とする皇別系譜を伝える。
これらを総合すると、 彦太忍信命―屋主忍男武雄心命―武内宿禰―石川宿禰―蘇我麻智―韓子―高麗―稲目 という系譜構成が導かれるが、史料成立時期や性格を考慮すれば、すべてを史実として受け取ることはできない。
太田亮(1942)は、これらの伝承を踏まえ、蘇我氏を武内宿禰系統に連なる氏族として位置づけている。
『古語拾遺』には、諸国からの貢進が増大した結果、大蔵が新設され、その管理を蘇我麻智宿禰に委ねたとする記事がみえる。ここでは、斎蔵・内蔵・大蔵の三蔵を総括したとされ、満智が朝廷の財務運営に深く関与していたことがうかがえる。
この記述を根拠に、蘇我満智は財政処理能力を背景として中央政権内で地位を高めた人物であったと考えられている。阿部武彦(1964)は、蘇我氏が早い段階から財政権を掌握し、帰化系集団を配下に組み込むことで政治的影響力を強めたと論じている。
『古事記』は、蘇我石川宿禰を祖とする諸氏族として、蘇我臣・川辺臣・高向臣・小治田臣・桜井臣・岸田臣などを挙げている。阿部武彦はこれを、蘇我一族が内部で分岐し、それぞれが独立した氏を名乗った結果と解釈する。
こうした同族系氏族が朝廷内に多数存在したこと自体が、蘇我氏の権力基盤を支える重要な要素であったとされる。また、帰化人集団を被官化して勢力を拡大した点についても、関晃の研究などにより一定の妥当性が認められている。
蘇我満智を、百済における権臣「木満致」と同一人物とみなし、蘇我氏を渡来系氏族とする見解も存在する。坂靖(当時・奈良県文化財保存課)は、考古学的観点から飛鳥地域の開発主体を検討した結果、蘇我氏の起源を朝鮮半島南西部(全羅道周辺)に求める可能性を指摘している。
もっとも、この説については文献的裏付けが限定的であり、学界において定説とはなっていない。
『日本書紀』履中天皇2年(401)正月条によれば、磐余に宮廷が設けられた際、蘇我満智は平群木菟・物部伊〓弗・葛城円らとともに政務を執ったとされる。この記事から、満智が5世紀初頭の王権中枢に関与していた可能性が読み取れる。
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