藤井千尋 ― 2025年07月02日 22:47
藤井千尋(ふじい ちひろ、1837年- 1900年3月15日)は、幕末勤王の志士、明治期の内務官僚である。第一次奈良博覧会の開催に尽力した。
概要
1837年(天保8年)に上野国群馬郡(現群馬県高崎市)で生まれる。幼名は弘助であったが、1870年(明治3年)に千尋と改名した。20歳頃に幕府御馬所見習いとなる。 明治維新後、藤井千尋は明治政府に出仕し、1869年7月12日(明治2年6月4日)に徴士弾正台大巡察に任官される。1870年(明治3年)10月、堺県大参事に任命される。1871年(明治4年)11月22日、堺県権参事に任命される。1872年(明治5年)7月8日、堺県参事に任命される。1872年(明治5年)11月10日、従六位となる。 廃藩置県後、最初の県令である四条隆平が退任した後、青山貞が奈良県権令に就任する予定であったが、赴任しないまま他の任務についたため、代わりに堺県参事であった藤井が1873年(明治6年)11月19日に奈良県権令に就任した。1874年(明治7年)2月18日、正六位となる。 1876年(明治9年)4月、奈良県が廃止され、堺県に合併され廃官となり、従五位となる。 1883年(明治15年)11月4日、能勢豊島郡長となる(月俸50円)。 1886年(明治18年)11月、大阪府の生國魂神社宮司・松下隆和の辞職に伴い、生國魂神社宮司に就任した。1900年(明治33年)3月15日に逝去した。63歳没。
第一次奈良博覧会
湯島聖堂大成殿を会場に博覧会が開催されたあと、産業振興を目的として、奈良県でも博覧会の開催が計画された。 1874年(明治7年)8月、奈良県権令・藤井千尋のすすめで、植村久道・鳥居武平ら奈良町の有力者が中心となって奈良博覧会社を設立し、翌1875年(明治8年)4月1日から6月19日までの80日間、東大寺大仏殿と廻廊を会場に第一次奈良博覧会が開かれた。書画、古器古物、動植物標本、機械類が展示された。東大寺・法隆寺・春日大社など大和の有力な社寺や諸家が所蔵する什宝や書画などが、多数出品され、また明治5年の壬申検査で開封された正倉院御物が出陳された。正倉院からは鳥毛立女屏風、紅染象牙尺、黄熟香、紫壇碁局、金銅投壷、木製黒漆水瓶などの名品が出品された。第1次奈良博覧会の観客数は17万人を超え大人気であった。博覧会は1890年(明治23年)まで続いた。神仏分離政策等によって散逸の心配があった多くの宝物類の認識が高まった。 1875年(明治8年)の奈良博覧会で赤漆文欟木御厨子の1枚の扉が紛失した。博覧会の関係者で奈良県権令の藤井千尋の自宅で発見され、返却された(由水常雄(2006))。
奈良県での業績
奈良在任期間中の業績ととしては、大区会議所の整備・大区小区の組み替えなど、大区小区制の整備、地租改正事業の実施、「学制」以後の小学校の整備、小学教員伝授(伝習)所以降の教員養成機関の設立などである。
参考文献
- 奈良国立博物館(2008)『正倉院展60回の歩み』奈良国立博物館
- 東京国立博物館(1981)『特別展 正倉院宝物』東京国立博物館
- 由水常雄(2006)『天皇のものさし』、麗澤大学出版会
- 奈良県(1987)『青山四方にめぐれる国 : 奈良県誕生物語』奈良県
- 和田萃,幡鎌一弘,谷山正道,山上豊,安田 次郎(2010)『奈良県の歴史』(県史29)山川出版社
- 国立公文書館(1892)「第五類 諸官進退・官吏進退」明治十九年官吏進退五・内務省三止
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町田久成 ― 2025年06月28日 16:47
町田久成(まちだひさなり, 1838年1月27日 - 1897年9月15日)は、旧薩摩藩士、初代の帝国博物館(現在の東京国立博物館)館長である。
概要
薩摩の島津氏門族で薩摩国(鹿児島県)石谷城主町田久長の長男として生まれる。母は吉利郷領主小松清穆の長女・町田国子である。1856年(安政3年)19歳で江戸に出て「昌平坂学問所」で官学・国学を学ぶ。帰藩後の1863年、大目付、藩開成所掛となる。「薩英戦争」では本陣警護隊長として参戦する。部下に東郷平八郎がいる。1864年の「禁門の変」では兵士約600人の六郷隊隊長となる。1865年(慶応1年)、森有礼ら薩摩藩の留学生を率いて渡英する。約2年の滞在でロンドンをはじめ、パリ万博にも赴いた。滞欧中は大英博物館やケンジントン博物館などを見学し、博物館事業の重要性を認識しした。1867年6月に帰国する。1868年、参与職外国事務掛となる。 帰国後は1970年(明治3年)、物産局が設けられたばかりの大学南校に勤め、その後は外国官判事、外務大丞などを歴任する。1871年(明治4年)に「集古館建設の提言」を行う。古器物(文化財)の保護、複製(模写)を建議した。は「明治期における文化財保護の歴史の端緒」を開いたと評価される。久成の提言は、翌月に「古器旧物保存方」の公布として実現した。 1872年、3月湯島聖堂にて「湯島聖堂博覧会」を開催する。ウィーン万博への出品物を披露する。1872年(明治5年)、蜷川式胤、内田正雄や画家高橋由一、写真家横山松三郎らとともに、正倉院をはじめとする社寺の宝物調査のため約4か月間出張する。
1882年3月、東京帝室博物館(後の東京国立博物館)初代館長に就任した。博物局・内山下町(現・日比谷公園)の博物館時代に、東京国立博物館、国立科学博物館、東京都恩賜上野動物園の3館の基礎を作ったことで高く評価されている。1882年10月 東京帝室博物館長を辞職。1883年10月農商省博物局勤務。1885年3月元老院議官となる。この頃、町田の元に岡倉天心、フェノロサが町田の向島小梅の別送に足繁く通う。1889年、12月。元老院議官を辞職する。 1890年(明治23年)、園城寺法明院住職桜井敬徳阿闍梨によって仏門に入り、園城寺(三井寺)末光浄院の住職になった。1896年(明治29年)。病にかかり上京、寛永寺の子院である明王院(現在は廃絶)で療養していたが、翌年病が悪化し1897年9月15日に滞在先の上野公園の韻松亭で世を去る。享年60歳。
顕彰
三井寺では功績に酬いるため町田に権大僧正の僧位を贈った。1912年、東京の帝室博物館(現在の東京国立博物 館本館北側)の庭に顕彰碑として町田久成の銅像が設置される。 墓は、滋賀県大津市の園城寺(三井寺)山内の法明院と東京津梁院墓地(東京都台東区上野桜木1-14-29、明治31年9月)にある。
参考文献
- 奈良国立博物館(2008)『正倉院展60回の歩み』奈良国立博物館
- 東京国立博物館(1981)『特別展 正倉院宝物』東京国立博物館
- 由水常雄(2006)『天皇のものさし』、麗澤大学出版会
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和田晴吾 ― 2025年06月27日 22:53
和田晴吾(わだせいご、1948年 – )は日本の考古学者である。研究分野は弥生時代・古墳時代の考古学的研究で、特に古墳研究。兵庫県立考古博物館名誉館長。立命館大学名誉教授。文学修士。
概要
奈良県に生まれ、京都大学文学部で考古学者の小林行雄に師事する。 1987年の論文「古墳時代の時期区分をめぐって」(考古学研究会第33回総会研究発表--統一テーマ「考古学における時期区分・時代区分」考古学研究 / 考古学研究会編集委員会 編 ))は、古墳の編年研究に大きな影響を与えた。2022年3月、古墳壁画の保存活用に関する専門家の会合の座長を務めた。同会合の基本構想案で新施設を作り高松塚古墳の出土資料を集約して保存する計画である。展示室のほか講演会や体験学習を催すスペースを設け、国内外の研究機関と連携して日本の壁画を総合的に調査研究する施設である。和田氏は「明日香の古代遺産を包括して紹介する拠点にしてほしい」と語る。大阪府高槻市にある闘鶏山古墳(4世紀前半)の未盗掘前期古墳について、古墳研究で著名な和田晴吾館長は「合掌形の石槨は地震などで崩れやすい。壊れず完全に残っている点で特に貴重だ」と語る。さらに「(未盗掘古墳は)地域差も大きい。山城地域(現在の京都府南部)は盗掘集団がおり未盗掘はまれだが、残りのよい地方もある」と語る。 西宮市津門大塚町のアサヒビール工場跡地の地中から、8基の古墳が見つかったことについて「西宮市内の平野部はほとんど古墳が残っておらず、今回の発見は「当時の阪神間地域の社会情勢を探る手がかりになる重要な史料となる」と語る。研究キーワードは「日本考古学、考古学、古墳時代、首長連合、他界観」である。
経歴
- 1948年 奈良県に生まれる。
- 1972年 京都大学文学部卒業、小林行雄に師事。
- 1977年 京都大学大学院文学研究科考古学博士後期課程中退。
- 1977年 京都大学助手/富山大学人文学部助教授
- 1985年 立命館大学文学部教授。
- 2014年 立命館大学名誉教授・特任教授。
- 2015年 兵庫県立考古博物館館長就任(第2代)。前任は石野博信。
- 2024年 兵庫県立考古博物館館長を退任し、名誉館長となる。
受賞
- 令和6年度地域文化功労者 文化庁
著書
- 和田晴吾(1995)『(共著)継体王朝の謎―うばわれた王権』河出書房新社
- 和田晴吾(2011)『(共編著)講座 日本考古学』第7巻、青木書店
- 和田晴吾(2012)『(共編著)講座 日本考古学』第8巻、青木書店
- 和田晴吾(2014) 『古墳時代の葬制と他界観』吉川弘文館
- 和田晴吾(2015)『古墳時代の生産と流通』吉川弘文館
- 和田晴吾(2018)『古墳時代の王権と集団関係』吉川弘文館
- 和田晴吾(2018)『(共著)淡路島松帆銅鐸と弥生社会』雄山閣
- 和田晴吾(2019)『(共著)前方後円墳 : 巨大古墳はなぜ造られたか』岩波書店
- 和田晴吾(2021)「(共著)『播磨国風土記』の古代史」神戸新聞総合出版センター
- 和田晴吾(2024)『古墳と埴輪』岩波書店
参考文献
- 「高松塚古墳壁画の展示施設、29年度までに開館」日本経済新聞, 2022年3月17日
- 「大阪・高槻に古代のタイムカプセル」日本経済新聞、2020年9月8日
- 「西宮のビール工場跡地で古墳8基見つかる」朝日新聞、2022年11月10日
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大場磐雄 ― 2025年06月11日 23:43
大場磐雄(おおばいわお、1899年9月3日 - 1975年6月7日))は日本の考古学者である。
概要
考古学者であるが、折口信夫博士に民俗学を学び、内務省神社局考証課時代に課長の宮地直一(後に東京帝国大学教授)の指導を受け、各地の神社調査、神社誌編集に携わるなど、考古学・民俗学・文献史学を総合した「神道考古学」を提唱した。熊野・春日・諏訪などの経塚、神坂峠・入山峠などの遺跡や各地の神体山・磐座などの調査を行う。1949年(昭和24年)、國學院大學教授・同大学図書館長に就任する。洞穴遺跡、弥生時代の低地遺跡である菅生遺跡や登呂遺跡、縄文から古代の集落遺跡である平出遺跡、方形周溝墓の命名のもととなった宇津木向原遺跡などの調査・研究を行う。晩年には、銅鐸や古墳、式内社等の分布から古氏族に迫る著作『考古学上から見た古氏族の研究』をまとめた。調査・研究記録は『大場磐雄著作集』・『楽石雑筆』にまとめられた。武蔵野市文化財保護委員会議の初代議長としても活躍した。文学博士(1948年)。 現在、国学院大学博物館前に銅像が建つ。あだ名は「河童」だったという。
経歴
1899年(明治32年)、 東京府麻布区に生まれる。 1918年(大正7年)、國學院大學入学。 1922年(大正11年) 國學院大學文学部国史学科卒業、神奈川県立第二横浜中学校教諭 1925年(大正14年)、内務省神社局考証課嘱託 1928年(昭和3年)、谷川から大場へ改姓 1929年(昭和4年)、國學院大學付属神道部講師(9年予科講師、10年文学部講師) 1938年(昭和13年)、神宮徴古館嘱託 1940年(昭和15年)、東洋大学学部講師、神祇院考証課嘱託 1947年(昭和22年)、厚生省公衆保健局嘱託、国立博物館事務嘱託 1948年(昭和23年)、文学博士(「祭祀遺蹟の研究」國學院大學)、國學院大學考古学会会長 国立博物館調査員、国立公園管理課調査員、多摩美術大学講師 1949年(昭和24年)、國學院大學教授 1960年(昭和35年)、千葉大学文理学部講師 1967年(昭和41年)、和洋女子大学講師 1968年(昭和42年)、國學院大學大学院文学研究科委員長 1970年(昭和45年)、國學院大學退職、客員教授となる 1972年(昭和47年)、文化財保護審議会専門委員 1975年(昭和50年)、6月7日逝去、東京都幡ヶ谷清岸寺に埋葬
受賞
- 1972年 - 学術教育文化功労により銀盃を送られる。
- 1975年 - 勲三等瑞宝章授与
学会
著書
- 単著
- 大場 磐雄(1934)『日本考古学概説』日東書院
- 大場 磐雄(1935)『考古学』建設社
- 大場 磐雄(1943)『日本古文化序説』明世堂
- 大場 磐雄(1943)『神道考古学論攷』葦牙書房
- 大場 磐雄(1948)『古代農村の復原―登呂遺蹟研究』あしかび書房
- 大場 磐雄(1948)『日本考古学新講』あしかび書房
- 大場 磐雄(1970)『祭祀遺跡 神道考古学の基礎的研究』角川書店
- 大場 磐雄(1971)『常陸大生古墳群』 雄山閣、1971年
- 大場 磐雄(1975)『大場磐雄著作集〈第1巻〉先史文化論考』雄山閣出版
- 大場 磐雄(1975)『大場磐雄著作集〈第2巻〉先史文化論考』雄山閣出版
- 大場 磐雄(1977)『大場磐雄著作集〈第3巻〉原史文化論考』雄山閣出版
- 大場 磐雄(1975)『大場磐雄著作集〈第4巻〉歴史考古学論考』雄山閣出版
- 大場 磐雄(1976)『大場磐雄著作集〈第5巻〉古典と考古学』雄山閣出版
- 大場 磐雄(1975)『大場磐雄著作集〈第6巻〉記録考古学史楽石雑筆』雄山閣出版
- 大場 磐雄(1976)『大場磐雄著作集〈第7巻〉記録考古学史楽石雑筆』雄山閣出版
- 大場 磐雄(1977)『大場磐雄著作集〈第8巻〉記録考古学史楽石雑筆筆』雄山閣出版
- 大場 磐雄(1996)『十二支(えと)と十二獣(どうぶつ)』北隆館
- 共著
- 大場 磐雄, 桐原 健(1967)『まつり―考古学から探る日本古代の祭』學生社
- 大場 磐雄, 那智経塚発掘調査団(編(1970)『那智経塚―その発掘と出土品』熊野那智大社社務所
- 大場 磐雄(編(1981)『神道考古学講座 (第1巻) 』雄山閣出版
- 大場 磐雄(編(1982)『神道考古学講座 (第2巻) 原始神道期1 古墳時代の祭祀遺跡』雄山閣出版
- 大場 磐雄(編(1981)『神道考古学講座 第3巻 原始神道期 2 古墳時代の祭祀遺』雄山閣出版
参考文献
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坪井清足 ― 2025年06月01日 23:30
坪井清足(つぼい きよたり、1921年11月26日 - 2016年5月7日)は日本の考古学者である。
概要
1921年(大正10)年11月26日、大阪府大阪市に生まれる。父は在野の考古学者として梵鐘研究を開拓した坪井良平である。1934年4月、大阪大倉商業学校に入学。1941年、京都帝国大学文学部に入学した。1943年に学徒動員により兵役に従事し、台湾に送られた。台湾では台北帝国大学医学部の人類学者である金関丈夫と交流を持った。1946年3月に復員により復学し、1948年に卒業する。1949年に京都大学大学院に進学する。1950年から平安中学校・平安高等学校教諭などを経て、1955年に京都国立博物館に採用された。同年、奈良国立文化財研究所(現奈良文化財研究所)に転出し、平城宮跡(奈良市)などの発掘や最古の仏教寺院、飛鳥寺の発掘調査を担当し、一塔三金堂の伽藍配置などの画期的な成果を挙げる。1977年から奈良国立文化財研究所長となり、1986年に奈良国立文化財研究所を退官する。1986年に財団法人大阪文化財センター理事長に就任する。2000年(平成12年)に財団法人元興寺文化財研究所所長就任を経て、2013年以降は公益財団法人元興寺文化財研究所顧問を務めた。2016年5月7日、急性心不全により死去。94歳没
評価
考古学、遺跡調査に関して測量・探査・保存科学・年輪年代・木簡学・史跡整備などの新たな調査研究分野を開拓したとされる。アルファペットと数字の組み合わせにより調査地点を表示する方法を考案する等、大規模遺跡の調査方法と記録方法を確立した。写真測量や遺物の保存処理などでは新技術を導入した。平城宮跡の調査では、3m四方の小地区を基本に、坪井は事前の発掘調査を義務付け、発掘調査費用は開発者側が負担する「原因者負担」の原則を確立する上で中心的な役割を果たし、埋蔵文化財行政の枠組みを構築するために尽力した。教育委員会には考古学がわかる人材が必要と力説する。発掘を請け負う民間業者にも考古学の知識が必要と力説する。
人柄
ヨーロッパの博物館を訪ね現地の展示方法に刺激を受けて、国内でビジュアルで印象に残る歴史展示の指導をした。後進の間では厳しさで知られたが、話す内容が的確であったため、逆に「怒られてよかった」という人もいた。率直に物を言う毒舌家としても知られ、名前の「きよたり」をもじって「あくたれ」のニックネームも付いた。
公職
- 文化財保護審議会第三専門調査会長、
- 学術審議会専門委員、
- 宮内庁陵墓管理委員、
- 日本ユネスコ国内委員会委員
- 文化庁文化財鑑査官、
- 奈良国立文化財研究所所長
受賞
- 1983年度 - 第35回NHK放送文化賞
- 1991年- 勲三等旭日中綬章、
- 1999年 - 文化功労者
- 従四位
- 1983年 - 日本放送協会放送文化賞、
- 1990年 -大阪文化賞、
- 1991年 -朝日賞を受賞
- 1991年 - 勲三等旭日中綬章
- 1999年 - 文化功労者
著書
- 坪井清足(1964)『飛鳥寺』中央公論美術出版。
- 坪井清足(1973)『陶磁大系2 弥生』平凡社
- 坪井清足(1985)『古代日本を発掘する 2 飛鳥の寺と国分寺』岩波書店
- 坪井清足(1986)『古代追跡―ある考古学徒の回想』草風館
- 坪井清足(1986)『埋蔵文化財と考古学』平凡社
- 坪井清足(1987)『宮都発掘』吉川弘文館
- 坪井清足(2000)『東と西の考古学』草風館
- 坪井清足・金関恕・佐原真 (2000)『考古学今昔物語』文化財サービス
参考文献
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井上光貞 ― 2025年05月11日 01:17
井上光貞(いのうえみつさだ、1917年9月19日 - 1983年2月27日)は歴史学者である。東京大学名誉教授。日本古代史研究の碩学。元国立歴史民俗博物館館長。文学博士。
概要
1917年(大正6年)9月、東京に生まれる。井上馨の曾孫。桂太郎の孫。父は桂太郎の次男の井上三郎、母は井上馨の娘。腎臓炎のため、成蹊高等学校の理科乙類から文科乙類に異動する。成蹊高校の西洋史の藤原音松の影響を受け、歴史に興味をもつ。『日本資本主義発達史講座』の影響を受ける(井上光貞(2004))。 大和政権の全国統一の過程を論じ、大化改新前の古代国家の構造を解明した。「日本古代国家の研究」、「神話から歴史へ(日本の歴史)」はベストセラーとなり、古代史ブームを引き起こした。学生時代から短歌を詠み、没後一周忌に「冬の海」が編まれた。紫綬褒章受章。
経歴
1940年4月、東京帝国大学文学部の国史学科に入学する。坂本太郎、和辻哲郎博士の薫陶を受ける。古文書が読めなければ日本史の研究はできないといわれ、演習に取り組む。魏晋時代専門の東洋史の浜口重国に影響を受ける。 1942年9月 東京帝国大学文学部国史学科を卒業し、大学院に進む。恩師坂本太郎による大学院での講義でその後の研究が決定づけられた。卒業後は帝国学士院で『帝室制度史』の編纂を行う。1946年、東京帝国大学の助手となる。1949年、(昭和24年)6月から東京大学に新設された教養学部の講師となる。一般教育の歴史学を担当する。1950年に東京大学助教授となる。1959年、「日本浄土教成立史の研究」で文学博士(東京大学)となる。1961年から文学部に移る。大学・大学院の国史学の担当となる。1967年4月に東京大学文学部教授に昇任する。1974年に東京大学文学部長(1976年まで)。1978年、定年退官し国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の設立準備室長となる。1981年、国立歴史民俗博物館の初代館長に就任した。-1983年2月7日、逝去する。 公職は文化財保護審議会の専門委員、歴史風土審議会委員。1971年から1973年まで史学会理事長となる。
著作
- 井上光貞(1985)「井上光貞著作集」(全11巻 岩波書店)
- 井上光貞(1960)『日本国家の起源』岩波書店
- 井上光貞(1960)『日本古代の王権と祭祀』東京大学出版会
- 井上光貞(1965)『日本古代国家の研究』岩波書店
- 井上光貞(2001)『日本古代の国家と仏教』岩波書店
- 井上光貞(2004)『飛鳥の朝廷』講談社
- 井上光貞(2005)『神話から歴史へ』中央公論新社
参考文献
- 井上光貞(2004)『わたくしの古代史学 (人間の記録)』日本図書センター
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武田幸男 ― 2025年04月24日 00:40
武田幸男(たけだゆきお、1934年8月18日- 2021年8月4日)は日本の歴史学者、東アジア史学者である。文学博士。東京大学名誉教授。
概要
専攻は朝鮮史である。金石文と文献史料双方に精通し、朝鮮古代史の先達として活躍した。 末松保和の研究を継承する。広開土王碑の研究で知られ、数多くの拓本を収集した。広開土王碑に関する「好太王碑改竄説」や解釈が成り立たないことを論証した。中国正史に見られる「倭の五王」遣使記事を検討し、当時の倭国の大王が中国王朝に対して「倭」という姓を名乗っていたことを指摘した。『新羅中古期の史的研究』では朝鮮半島の古代史で主導的役割を担った新羅について、とくに飛躍的な発展を見せた新羅中古期(514~654年)を中心に考究した。陸続と発見された各種の新羅碑文を諸史料とともに精緻に読み込むことにより、当時の激動する東アジアの国際関係における、新羅の史的実態とその展開過程を明らかにした。 武田幸男は高句麗王家を分類し、「伝説王系」と「大王王系」に分類した。
経歴
- 1934年、山形県出身
- 1959年 東京大学文学部東洋史学科卒業
- 1961年 東京大学大学院人文科学研究科 修士課程修了
- 1968年 北海道大学文学部助教授
- 1971年 東京大学文学部助教授
- 1981年 東京大学文学部教授
- 1992年 「高句麗史と東アジア -「広開土王碑」研究序説」で東京大学文学博士
- 1995年 定年退官、東京大学名誉教授
- 1995年 名古屋市立大学教授
- 2000年 岐阜聖徳学園大学経済情報学部教授
- 2006年 岐阜聖徳学園大学退職
学会
- 東方学会評議員
- 東洋文庫研究員
- 朝鮮学会幹事
- 史学会会員
著書
- 単著
- 武田幸男(1988)『広開土王碑原石拓本集成』東京大学出版会
- 武田幸男(1989)『高句麗史と東アジア―「広開土王碑」研究序説』岩波書店
- 武田幸男(1996)『朝鮮の歴史と文化』放送大学教育振興会
- 武田幸男(1997)『朝鮮社会の史的展開と東アジア』山川出版社
- 武田幸男(2007)『広開土王碑との対話』白帝社<白帝社アジア史選書>
- 武田幸男(2009)『広開土王碑墨本の研究』吉川弘文館
- 武田幸男(2020)『新羅中古期の史的研究』勉誠出版
- 武田幸男(2022)『新羅政治社会史研究』勉誠出版
- 共著
- 武田幸男(1989)「朝鮮半島とその歴史的展開」『東北アジアの民族と歴史』山川出版社
- 武田幸男(1993)『広開土王碑と古代日本』学生社
- 武田幸男(2000)『朝鮮史』山川出版社
- 武田幸男(2000)「新羅の二人派遣官と外司正 」『東アジア史の展開と日本』山川出版社
- 武田幸男編(2005)『日本と朝鮮 : 古代を考える』吉川弘文館
- 武田幸男編(2009)『広開土王碑』天来書院
参考文献
- 武田幸男(1993)『広開土王碑と古代日本』学生社
- 武田幸男(2000)『新羅の二人派遣官と外司正』東アジア史の展開と日本(共著)
- 奥田尚(2005)「古代東アジアの歴史叙述に関する序説(二) : 高句麗の初期の王の名を手がかりに」アジア文化学科年報No 8,pp.32-48
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