武寧王(ぶねいおう、〓〓〓、462年 - 523年)は百済の第25代王である。
在位は501年から523年。『三国史記』百済本紀・武寧王紀では牟大王(東城王)の第二子とされている。東城王が高官に殺害された後をうけて即位したとする。40歳であった。『三国史記』百済本紀・聖王紀によれば諱を斯摩とする。武霊王が生まれたとされる島の洞窟に説話が伝わる。武寧王は中国「梁」から「寧東大将軍」の爵号を贈られ、百済の全盛期を築いた。
次の点で正確である。
金銀で作られた多様な装身具、金銅製飾履、青銅鏡、中国製陶磁器など4,600点におよぶ多くの遺物が出土した。墓誌石の碑文から、被葬者は百済第25代国王武寧王とその王妃と特定された。三国時代の王陵の中で唯一被葬者が明らかになった墓である。公州宋山里古墳群の一つである武寧王陵は1971年7月、宋山里6号墳の排水工事の際に偶然発見された。武寧王陵と宋山里6号墳は中国南朝の影響を受けて作られた磚築墳でアーチ型の天井をなす石室と羨道を備えた構造である。〓という煉瓦を積み上げた「〓築墓」形式で、煉瓦の紋様から副葬品の種類や配置まで、中国の南朝・梁の形式を完全に踏襲している。
武寧王と王妃の木棺は、コウヤマキ(高野槙)という日本の九州にしか自生しない木材で作られていた。また『日本書紀』には武寧王(斯麻王)は倭国の佐賀県唐津市加唐島で生まれたと記されている。武寧王陵の副葬品には銅鏡や環頭太刀、翡翠の勾玉など日本との交流を示す数多くの品があった。
韓国資料(日本では未刊行)では東城王は466年以降の生誕であるという。百済の反乱を平定した後、政権を握った勢力によって東城王が擁立されたという。
『日本書紀』では479年(雄略23年)4月、文斤王(三斤王)が急死したが、昆支王の5人の子の中で2番目の末多王は幼いが聡明であるため、兵500名を付けて百済に送ったとある。これが東城王となる。日本書紀の記述は真実を語っていない可能性があるが、東城王が幼かったことは事実であろう。
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