三ツ寺遺跡(みつでらいせき)は、群馬県高崎市にある 古墳時代の遺跡である。
居館のみを示す場合は「三ツ寺Ⅰ遺跡」と称する。
概要
日本ではじめて発見された古代の豪族の館として知られる。
榛名山東南麓で唐沢川の流域にある標高120m付近に所在する古墳時代の豪族居館跡である。
調査
1981年(昭和56年)から1983年(昭和58年)にかけて上越新幹線建設の際に遺構が発掘された。発掘調査後遺構は高架橋の橋脚範囲だけであったが、埋め戻され予定通り新幹線が建設され。現在は地表面の遺構は残っていない。調査されたのは全体の3分の1である。
遺構
- 三ツ寺Ⅰ遺跡の復元模型(若狭 徹(2004),p.12)
1メートルの盛土が施された1辺86メートルの方形の屋敷地である(参考文献1,p.106-110)。館の周りに幅40m、深さ3mの大規模な周濠をめぐらす。濠に面した斜面に古墳の葺石と同様の石が全面に葺かれる。
- 張り出し
屋敷地から濠に向かう10mから20m突き出す張り出しが3か所ある。濠の外側の長さは1辺160mある。濠を登る外敵を矢でいるための施設と考えられている。
- 柵列
濠の内側は濠に沿って三重の木製の柵列によって囲まれ、その内部は柵によって南と北のブロックにわけられる。柵列は当初は二重で、その後、三列に増強された。外側の第一柵列は柱穴とそれらを結ぶ布堀り(溝)を伴うもので、支柱を立て、柱穴をふさぐための板材を溝に落としこんでいたと考えられる。第二柵列の布堀は幅1mほどで四角形の柱穴が並ぶ。柱穴は80cm、深さ1mと大きく深い。穴の土層観察から柱は直径20cm以上あり、柱間に厚さ7cmの板材が落とし込まれる。第三柵列は列柱だけが並んでおり、柱と横木を渡す素通しの柵の可能性が高い。館の中央部分では第2柵列と同じ仕様の柵が直角に分岐し、その両側に第三柵列が回り込み、内部空間を2分する「結界」を作っている。
- 建物
南のブロックの西寄りはさらに柵によって囲まれ、その内部には東西14m、南北13.6mの大きな建物があり、館の中心となる建物と考えられる。四面に庇を持つ高度な建築技術による建物である。建物の西南には八角形の井戸屋型をもつ径1.5m、深さ3.5mの丸井戸がある。西北には導水高を伴う石敷きのプール状の施設がある。西側の濠を渡る導水橋によって館の外から水を引いている。祭りに用いる石製模造品が出土していることから祭祀の場と考えられる。
計画的な大規模遺構である。南のブロックは水を溜めて祭祀を行った施設であり、西のブロックは豪族の生活空間となっている。
- 1号掘立柱建物
内側に3間×3間の太い柱列がある。太さ20cm以上の木材を用いる。その外側に8間×8間のやや細い柱列があり、屋根の垂木を支え、外壁を構成する。寄棟造りの建物と想定される。
13.5m×11.7mと推定されている。西側のみ浅い柱列がつき、庇が付設されていた。内側は大空間で、塚柱がないため、高床式ではなく平屋式建物と考えられている。
関連古墳
なお周囲には同じ豪族居館である北谷遺跡や保渡田古墳群がある。また付近の黒井峯遺跡は豪族に支配された民衆の村である。
「三ツ寺Ⅰ遺跡」は生前の居館であるが、死後は保渡田古墳群に埋葬された。保渡田古墳群は二子山古墳(全長108m)、八幡塚古墳(96m)、薬師塚古墳(105m)の3つの大型前方後円墳が散在し、5世紀後半に相次いで築造された。
遺物
内郭などから須恵器・土師器・滑石製模造品,濠内より多量の木製品,ヒョウタン,モモ核等が出土した。
- 送風管
- 坩堝
- 琴
- 刀型木製品
- 弓
- 一木鋤(スコップ)
- ナスビ型鋤(柄が着脱式の鋤)
- 横槌
- 鳥形木製品
- 楔
- ササラ
- 紡錘車
- 布巻具:機織機の部品
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