蘇我韓子(そがのからこ、?-雄略九年)は古墳時代の豪族である。 「蘇我麻智」の子とされる。
雄略九年三月、雄略は新羅を打とうと考えたが、神は行くなと言った。雄略は蘇我韓子・大伴談連・小鹿火・紀小弓の4名を大将にして、新羅征伐のために朝鮮半島へ渡らせた。百済王は紀大磐(紀小弓が死去したため、代わりに派遣されたが蘇我韓子と仲が悪かった)と韓子を百済との国境まで呼び出した。蘇我韓子は紀大磐を弓でいたが、馬の鞍に当たった。紀大磐は射返したところ、蘇我韓子に当たり、韓子は河の中流で溺れて死去した。
蘇我氏の系譜は武内宿繭を祖とする(太田亮(1942))。
武内宿繭 - 蘇我石川- 蘇我満智 〓 蘇我韓子 〓 蘇我高麗 〓 蘇我稲目 〓蘇我馬子
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