蘇我倉麻呂(そがのくらまろ)は飛鳥時代の豪族である。 「蘇我馬子」の子とされる。 子に蘇我倉石川麻呂、蘇我連子、蘇我日向、蘇我赤兄、蘇我果安。
蘇我氏の分家である。推古36年3月に推古が崩御したとき、後継者が定まらないため、蘇我蝦夷大臣は阿倍麻呂臣と相談し、大王を定めようとして、群臣を大臣邸で饗応し、誰にすべきかと諮った。大伴鯨連は「遺言通りにすべきである」と意見を述べる。采女臣摩禮志・高向臣宇摩・中臣連彌氣・難波吉士身刺の4名は大伴鯨連の言う通りであるといった。許勢臣大麻呂・佐伯連東人・紀臣鹽手の3名は山背大兄がふさわしいといった。 蘇我倉麻呂はここでは言えない、十分考えてから申し上げるといった。
蘇我倉麻呂も群臣の一人として蘇我蝦夷が主催する会議に参加している。蘇我蝦夷の伯父であり、発言権はあったと思われる。この時は田村皇子とするか、山背大兄王とするかの二者択一であったようである。この時代に後継者を前の大王が指名する習慣があったのか、群臣会議の意見で決めるのが習慣ではなかったかという疑問がある。
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