幡羅遺跡(はらいせき)は埼玉県深谷市にある古代の郡役所跡である。 「幡羅官衙遺跡群」ともいう。
幡羅遺跡は深谷市の北東部で熊谷市との境に位置する。幡羅遺跡の官衙施設は北西部が正倉域、南東部が実務官衙域である。官衙は7世紀後半から11世紀前半まで機能していた、古代幡羅郡家(郡役所)跡である。現時点では郡庁は確認されていない。 遺跡の中央を走る道路跡がある。道路跡は両側に側溝を持ち、路面幅約6〜8メートルと大規模なものである。道路跡は遺跡の南西端から北東方向に伸びる。7世紀後半から末頃の竪穴建物跡と重なり、それを壊していることから、道路は7世紀末頃に造られたものと推定される。築地や柵列で建物群を方形に区画している。区画の周囲に多数の竪穴住居跡が認められた。 正倉院は南北2箇所で確認されている。正倉院(北)は南北約135m、東西約80mの規模と見られる。正倉院(南)の範囲は、南北約90m、東西約220mと見られる。正倉は7世紀末頃に成立し、10世紀前半〜中頃に廃絶したと考えられる。、国司が巡回する際に宿泊施設となった「館」とみられる四面庇建物が検出されている。 鉄生産が行われており、鉄製品が多数出土する。牛馬の骨が多数出土する。
遺跡は平成13年に2棟の正倉跡と正倉院区画溝が確認された。平成20年度の第32・34次調査で、建物跡4棟、竪穴建物跡8棟、溝5条、土坑24基である。L字に並ぶ長大な建物跡が確認された。
二重溝の内側に同じ方位で南北に構築された塀が検出された。塀の柱は直径50 〜 80cmの円形が基本である。柱穴の深さは、確認面から30 〜 50cmである。柱は柱痕跡を残すものと抜き取ったものがある。柱痕跡から、柱の径は20 〜 30cmと推定される。
古墳が造られていた台地の先端部に、竪穴建物が散在する中に小規模な倉庫などの掘立柱建物が建てられた。7世紀末頃になると竪穴建物は遺跡の南部、西部に集約され、郡家域や集落域が分離する。郡家域には正倉・館・厨家・曹司・道路などが整備された。遺跡の中央に路面幅約8メートルの道路が斜めに走り、その北西に正倉院、南東に官衙施設が造られる。正倉T期では正倉跡は5棟確認されており、全て掘立柱建物跡である。
正倉院は8世紀末頃に礎石建物への建て替えられ、敷地の拡張が行われた。正倉U期では正倉跡は2棟確認されており、全て掘立柱建物跡である。桁行は距離から5間程度と推定されている。 ある。
9世紀後半になると、建物ブロックが複数あった実務官衙域に二重溝と土塁による区画施設が造られ、郡家の構造が大きく変化した。9世紀以降になると、集落は分散化する傾向がみられ小規模な集落が数多く認められる。正倉跡は4棟確認された。推定される規模はいずれも50u前後と、以前より大規模である。
10世紀前半或いは中頃に廃絶し、10世紀後半には集落となった。
地方官衙の構成や立地を知るために重要な遺跡である。古代幡羅郡家及び祭祀場等からなり、正倉をはじめとする多数の建物群や区画施設、鍛冶工房、祭祀場などの郡家の諸施設が検出されており、郡家の全体像を把握できる。7世紀後半の成立から11世紀前半の廃絶までの300年以上の変遷を確認できる遺跡として重要である。
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