見晴台遺跡
2025-05-22


見晴台遺跡(みはらしだいいせき)は見晴台遺跡(みはらしだいいせき)は愛知県見晴町を中心として弥生町、貝塚町、白雲町の一部に所在する旧石器時代から室町時代にかけての複合遺跡である。

概要

見晴台遺跡が位置する台地を「笠寺台地」といい、北は山崎川、東は天白川、西は伊勢湾(当時は年魚市潟(あゆちがた))により区切られている。見晴台遺跡は笠寺台地の東南端に位置する。東海道線「笠寺駅」、名古屋鉄道名古屋本線「本笠寺駅」駅から東へ徒歩10分の距離である。 台地の標高は高い所で12mから15mであるが、水の流れで削られているため高低差がある。弥生時代後期(約2,000年前)から古墳時代前期(約1,500年前)の期間が見晴台遺跡の最盛期であった。戦時中は見晴台遺跡内に笠寺高射砲陣地が作られた。最多で6門あったが、現在は第2分隊・第6分隊の2基の砲座が残っており、戦争遺跡となっている。

発掘の経緯

見晴台遺跡がいつから人々に知られているかは明らかではない。1918年(大正7年)に遺跡の北側の桑畑(桜田貝塚)で弥生時代の魚形土器が発見されたと伝わる。1948年2月9日、名古屋市立機械専修学校の坪井邦夫教諭に引率された生徒が畑から「銅鐸形土製品」を発見したことから、研究者の小栗鐵次郎が『考古学雑誌』に掲載して、見晴台遺跡が全国に知られるようになった。1956年に見晴台遺跡は笠寺公園の予定地となったが、1963年に「名古屋考古学会」が結成されて、見晴台遺跡の意義を確認するため、翌年の1964年8月1日から11日にかけて名古屋考古学会会員、桜台高校、川名中学校の教諭と生徒ら51名により遺跡の東側で、最初の発掘調査(第一次発掘調査)が行われた。この調査では環濠(東側濠)の一部や貝層がみつかり、円窓付土器や赤く塗られた台付〓形土器が出土した。台付?形土器は通称「ブランデーグラス型土器」とも言われるスタイルの良い土器である。 第二次発掘調査は1965年3月23日から29日まで34名が参加して行われた。その後、2011年までに51次の発掘調査が行われている。見晴台遺跡の発掘調査で特徴的なことは、ほぼすべての過程を市民参加で実施することである。主として夏の約1カ月間、中学生以上を対象に行われ、地面を掘るだけでなく発掘記録なども作成し、初心者からベテランまで、毎年延べ約500人が参加する。ところが50年以上にわたる膨大な過去の調査結果の整理が十分でなかったため、資料館は第57次以後は市民調査を中断していた。令和6年7月2日に再開して、第58次発掘調査の参加者募集が行われている。

発掘の成果


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[弥生時代]

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